酒を覚えて十年も経つと悟ってくるもので、こんなものいいかげんきっぱり止めてしまいたいと思うときがある。はじめのうちは少量で満足していたのが、だんだんと深くやらねば酔えなくなり、しまいにはいくらやっても気持ちよく酔ってくれなくなる。徳利を前にして気に入らなさそうにしている男ほど惨めなものはないが、ふと気づけば自分がそうなっているのだから、救いようがない。
私の師匠はかつて言った。「良い酔っぱらいとは、できるだけ酔っていないフリをうまくやれる者である」。レイモンド・チャンドラーの小説のどこかに、酔えば酔うほど礼儀正しくなる男が出てきたと思うが、いわば彼が理想なのだ。いずれにせよ飲まないわけにはいかないから、私もとにかくこの作法を体得しようと修業を続けてきた。
その甲斐あって、昨年のことだが、親族が一堂に会した披露宴の高砂席で杯をさされるまま浴びるように飲んだにもかかわらず、最後まで正気を保っていることができた。披露宴ののち花嫁とご両親、それから私の父でバーに繰り出し、ソファに腰掛けて、さあこれから家族だけの深い話をするのだと意気込み、ワイングラスを唇に当てたところまでは覚えている。
この次の記憶は翌日の宿酔いと全身の激痛である。新居の寝床で半ば死んでいたのだが、あまりに痛むので自分の身体を改めてみると、そこらじゅうに青痣ができていた。これはどういうことだろうと妻に聞いてみると、彼女はつぎのように答えた。
「あなたはバーからの帰り、地下鉄の駅でとつぜん両膝をついて、泣きながらこう叫んだのよ。ああ、おれがこうしている間にも地球の裏側では戦争で人が死ぬ。それからひどく暴れたの」
数多くある羞恥のなかでも、自分が泣き上戸であると知ったときほど強烈な羞恥はない。酒席をともにした心優しい人々は私のことを気遣って、つぎに会っても、私の失態などまったく起こらなかったかのように振る舞ってくれる。だから記憶が曖昧なすべての酒席において私が、地球の裏側の戦争などの、わけのわからないテーマで勝手に泣いていた可能性は、充分にある。このように失態の範囲を確定できないから、いわば、恥の奥が深いのだ。これは「私は酒の飲み方を知っている」という密かな自負が崩れ去っていく感覚と相まって、ほかに類のないほどの羞恥の感覚をもたらす。
とにかく私はあの日、妻に土下座をして謝り、もう二度と泥酔はしないと誓った。だから私の不逞を晒したこの文章はその宣誓文であり、いままで酒で迷惑をかけたすべての人々にたいする謝罪文である。みなさま、ほんとうにごめんなさい。
PR誌「ちくま」3月号より藤田祥平さんのエッセイを掲載します