PR誌「ちくま」特別寄稿エッセイ

電車について
雲をつかむような方法・2

PR誌「ちくま」6月号より中田健太郎さんのエッセイを掲載します

「現実僅少論序説」という試論のなかで、詩人ブルトンは、なんとも雲をつかむようなことを書いている。「どうして一年のうちのおなじ時期には、列車はおよそ一定の人数の乗客を乗せているのだろう」。あるいは、「いつもは満員の劇場が、ただたんにみんなほかに用事があったという理由で、ある晩ほとんどがら空きになったりしないのは、どういうわけか」(『アンドレ・ブルトン集成』第六巻。訳文は一部変更した)。
 なるほど、これはたしかにありえないような話であり、また考えてみるべき問題だ。通勤のさなか、今日はみんなたまたまお休みで電車は貸し切りかもしれない、とわれわれが期待しないのはなぜなのか。理屈はやはりはっきりとしていて、その実現可能性が高くはないことを、どこかで知っているからだ。落胆を恐れて、われわれはそんな期待をどこかに置き忘れてきたらしい。
 しかしそれでも思うのだが、人生のなかで一回くらい、ある平日の朝、だれも乗っていない車両にでくわすということがあるのではないだろうか。あるべきだと思う。そんな日がやってくる実現可能性の低さは、蓄積されていくうちに、どこかで現実に触れるのではないか。こうした、数学的な間違いをふくんでいるはずの考えを、われわれは詩学的に掬いとろうとしている。
 蓋然性の低い幸運への期待を、ときに抱きなおしてみるのは、心の健康法ともなるだろう。じっさい、確実性の高いことや既知の利益ばかりを追いもとめていると、われわれは未知のものへの耐性をうしなって、世界を貧しく受けとるばかりだ。乗り換えアプリのしめす到着時刻や混雑情報を信じすぎると、その予定がわずかに狂っただけで、人はよけいな不機嫌に陥ってしまう。
「電車に座っている乗客たちをよく眺めれば、だれがどの駅で降りるのかわかる」と便利なアプリのようなことを豪語する人たちもいる。彼らの頭のなかには、謎めいたデータや偏見が層をなしていて、しかじかの駅の利用者たちの職種や嗜好を考慮すれば、車中の動向を高い精度で当てられるのだという。結果として、座席にありつく可能性が高まる、というのが彼らの計算である。その真偽は措くとしても、そんなことを毎朝つづけていたら、一人一人の人間にたいする感受性をうしなっていくようで、空恐ろしくも思う。むしろ、つぎの駅で全員がなんの前触れもなく降りてしまう、といった出来事を想像していたほうが、健やかな一日をすごせそうだ。
 満員の電車に乗りこもうとするときわれわれは、「まだ詰めればはいれるだろう」などと心に思ったりする。それなのにようやくの思いですべりこむと、とたんに車内の既得権益を代表したような気分になって、後ろにつづいて乗りこもうとしている人に、「どうやら私が最後の一人だったようです……」とでもいうような、情けない顔をときに向けたりしてしまう。これこそ、「凡庸なる悪」(アーレント)だろう。集団の利益を勝手に背負いこむくらいなら、つぎにやってくるかもしれない、われわれの専用列車を待っていたほうがいい。雲をつかむような話だろうか。確実なものだけをつかもうとすると、かえって危険なようである。

PR誌「ちくま」6月号