エッセイは贅沢品になろうとしているのだろうか。生活のうちに浮かぶ「よしなしごとを」、自分の感受性にもとづいて、「つれづれなるままに」書いていく。そんな人間めいた文学の居場所は、現代生活のなかで後退していくようだ。「春はあけぼの」と読むかわりに、われわれは都市ごと季節ごとの過ごしやすさの一覧表を検索してしまう。なにをおかしく感じるかということも、あらかじめ予測されていて、メールボックスを開くと広告が感情の先回りをしている。
そのような現代生活について、人間めいた言葉を欺瞞なしに書くことができるだろうか。この連載は、エッセイと呼べるものだっただろうか。それでも、書いてみることによってあらたに名指されたものもあるはずだ。蓋然性の低いものについて大切に考えることによってわれわれは、未知のものへの感受性を、あらたにしめそうとしてきたのではないか。
生活のなかではだれもが、蓋然性の低すぎることを「無いもの」としてあつかっている。迷惑メールのなかにほんとうのメッセージを探したりはしないし、いつも満員の電車が今日だけがら空きになるとも信じない。一方で、蓋然性の高いことは「有るもの」としてあつかわれる。昨日起きたことは今日も起こり、他人に起きたことは自分にも起こるだろうと思って、ビッグデータを内面化しながら生きている。
しかし、言葉のなかでまでそのように生きたいとは思わない。われわれは言葉によって、ありえないほど確率の低いものに、ありえないような生をあたえようとしてきたのだ。それは、認識の境界線をすこし動かしてみる試みでもあった。蓋然性の高いものと低いもののあいだに引かれている境界線をずらし、起こりそうなことも起こりそうにないことも等しく、まだ起きていない未知のものとしてあつかってみる。そのようにして、蓋然性の高いものと低いもののあいだにではなく、既知のものと未知のもののあいだに、決定的なちがいを感じて生きられるかもしれない。
座席に座りきれるかどうかという数の人がホームに並んでいるとき、われわれは電車の扉が開くやいなや、信じがたい正確さで体を動かして、最短距離で座席に滑りこむ。ところが、過酷な争奪戦がしずかに終わったあとに、まだひとつ座席があまっていて、もともと争う必要などなかったのだということが理解されると、照れくささとともにようやく空々しい「平和」の観念が車内に広まっていく。そんな戦争の対義語としての平和ではなく、電車の扉が開くまえに「今日はだれも席に座りたがらないかもしれない」と考えることで、未知なる平和を呼びこむことはできないだろうか。
雲をつかむような話だろうか。雲をつかんで離さないエッセイを書いてみたいのだ。そのようなエッセイは、現代生活のうちに未知をつなぎとめてくれるだろう。じっさい、「平和」や「愛」と肩をならべるような、未知なる概念がやがて存在するかもしれない。未来人の目には、それなしに人間は人間らしくないと思われるような、そんな大切な言葉がきっとありえて、それをわれわれはふたしかに握りしめている。
PR誌「ちくま」7月号より中田健太郎さんのエッセイを掲載します