初めてリトルプレスを作ったのは、二〇〇七年のこと。リトルプレスとは、少部数で発行くされる自主制作の出版物で、ミニコミ、リトルマガジン、ZINEなど様々な呼び名がある。ふと思い立って友人たちに声をかけ、その勢いのまま創刊号を作ったところで我に返った。このリトルプレスを扱ってくれる店はあるだろうか?――と。
就職活動もせず、卒業式にも出席しなかった僕は、入学式で着たきりになっていたスーツに袖を通し、苦戦しながらネクタイを締めて、書店へ営業に出かけた。リトルプレスは、営業や流通も自分たちでやるほかないのだ。
最初に出かけたのは大型書店だった。これだけ幅広い本が並んでいるのだから、きっと扱ってもらえるに違いない。そう自分に言い聞かせて営業に臨んだものの、取り扱ってもらうことはできなくて、目の前が真っ暗になった。そのときのことを思い出すと、今でも少し強張ってしまう。
最初に作ったリトルプレスは『HB』という名前で、坪内祐三さんが早稲田大学で開講されていた「編集・ジャーナリズム論」という授業で知り合った友人たちと作ったものだ。そう書くと、授業を受けて編集に興味を抱いたようになってしまうけれど、大学を卒業したあとも友人たちと関わる方法はないかと思案し、そうだ、雑誌を作れば編集会議という名目のもと集まって飲めるのではと考えたのが、皆に「雑誌を作りませんか」と声をかけた理由だ。
そんな不真面目な理由で雑誌を創刊してしまったけれど、「編集・ジャーナリズム論」の授業は真面目に受講していた。履修することになったのはふとしたことがきっかけだったけれど、こんな世界があったのかと面白く、大学四年間で毎週出席したのはこの授業だけだ。毎週一冊の雑誌を取り上げ、講義する。授業を受けた翌週には図書館の書庫に入り、バックナンバーを読み漁った。たとえば、『中央公論』。その雑誌が大正デモクラシーにおいて中心的な役割を担ったことは知っていたけれど、そういった硬派な論考よりも、小さな記事や広告を眺めるのが楽しかった。そこに時代が刻まれているような感じがした。その時間があったからこそ、何かを書き記しておこうと思うようになった気がする。
ドライブインというのも、今のうちに書き記しておかなければと思ったテーマの一つだ。かつては日本全国に点在していたドライブインは、一軒、また一軒と店を閉じつつある。どうしてそこで店を始めたのか。なぜ「ドライブイン」という看板を掲げることにしたのか。そこにどんな時間が流れてきたのか。そうした話を拾い集めて、今のうちに書き記しておかなければ、なかったことのように忘れ去られてしまう――そんな思いでドライブインの取材を始めたのは二〇一一年のことだ。まずは友人に借りた軽バンに布団を積み込んで、日本全国を走り、ドライブインを見つければ立ち寄った。食事のあとに少し話を伺っているだけでも、興味深い話を聞くことができた。これをルポルタージュとして書けば、百年後の読者は面白いと思ってくれるだろう。ただ、それが今の時代の読者に興味を持ってもらえるとは思えなかった。街道沿いには廃墟のようになってしまったドライブインも多く、ドライブインに興味を抱く読者がいるとは思えなかった。
それでも、とにかく記録しておかなければ。その一心で『月刊ドライブイン』というリトルプレスを創刊した。ひょっとしたら誰にも興味を持ってもらえないかもしれない。そもそも扱ってくれる書店はあるだろうか。そんな不安を抱えていたけれど、巻末に掲載する取扱店一覧は号を重ねるごとに増えていった。追加注文をしてくれる店もあった。ということはつまり、興味を持って買ってくれた人が世界のどこかにいるということだ。少しずつ反響が広がり、『月刊ドライブイン』を一冊にまとめた書籍が刊行されることになった。どこか信じられないような気持ちで、今この原稿を書いている。