井上ひさし氏(1934~2010年)は、戯曲、小説、エッセイなどの分野を横断して縦横無尽な活躍をした知識人だ。個人的に職業作家に転身するにあたって私は井上氏にとてもお世話になった(このことについては、拙著『宗教改革の物語』角川ソフィア文庫に詳しく書いた)。本書の解説の機会が与えられたことをとても光栄に思っている。
このコレクションには、井上氏の多面的な活動を伝える秀逸な作品ばかりが収録されている。母親への想いは涙をさそう。カトリック系の児童養護施設での生活の辛さも皮膚感覚で伝わってくる。NHKに1カ月間住んでいた経験をユーモラスに描いているが、そこから仕事の鬼だった駆け出し時代の姿が伝わってくる。エッセイ一つ一つについて感想を記していたら、紙幅がいくらあっても足りない。この解説では、井上氏の世界観、書物への愛、さらに文章術について記したい。
世界観に関して、井上氏がカトリック作家であることを再認識した。カトリックの本来の意味は普遍性ということだ。井上氏は、普遍的な価値観にこだわり、偏狭なナショナリズムに囚われぬように細心の注意を払っていたことが「魯迅の講義ノート」から読み取れる。
〈魯迅の五十六年の生涯を貫くものの一つに「一般論は危険だ」という考え方があったのではないかと、私は思う。「日本人は狡滑だ」、「中国人は国家の観念がない」、「アメリカ人は明るい」、「イギリス人は重厚だ」、「フランス人は洒落ている」という言い方は避けよう。日本人にも大勢の藤野先生がいる。中国人にも売国奴がいる。日本人はとか、中国人はとか、ものごとを一般化して見る見方には賛成できない。彼の膨大な雑感文には、この考え方がつねに流れている。火事場泥棒風に中国大陸に「進出」してくる日本を彼は心底から憎んだ。がしかし、晩年の九年間、国民党政府の軍警の目を避けるために、郵便物の宛先を内山完造が経営する書店にしていた。百四十の筆名を使って書き分けていた雑感文の原稿料の振込み先も内山書店だった〉(本書24~25頁)。
ここでいう一般論は普遍性に裏付けられていない。民族に対するレッテル貼りだ。一人一人の人間の固有性をたいせつにすることで、自由、希望、愛などの普遍的価値観が実現されるのだ。このような信念を持つ井上氏は、あらゆる権力や権威から解放されている。そのことが、「被爆した父と娘を描いて」というエッセイに端的に示されている。
〈あの芝居(引用者註*「父と暮らせば」)を書く直接のきっかけは、二つの言葉でした。ひとつは、広島の原爆投下に関する昭和天皇の「広島市民に対しては気の毒であるが、やむをえない」という一言(一九七五年十月三十一日)。もうひとつは、中曾根康弘首相(当時)が広島の原爆養護老人ホームで原爆症と闘う方々に「病は気から。根性さえしっかりしていれば病気は逃げていく」と語ったこと(一九八三年八月六日)。これを聞いたときにキレて、どうしても書かねばと思いました。
芝居や小説は、原体験に比べれば何億分の一の体験でしかないが、記憶の片隅にとどまるだけでもいい。人類の「折り返し点」という記憶をリレーしていく必要がある。広島で修学旅行シーズンにこういう芝居を上演して若い人たちに見てもらおうという話も進んでいるし、米国やロシアでの上演の企画もはじまっています。
冷戦時代には、核弾頭が五万発存在したと言われる。その爆発力は、一説によると高性能火薬二百億トン分で、人類は一人あたり三トン以上の火薬を背負って生きてきたことになります。その三トンの火薬をどうやって二トン、一トンにし、なくしていくか。自らが作ったものが自らの生存を脅かすという基本構造をどう解体していくか〉(前掲書336~337頁)。
核廃絶という普遍的価値観が揺らぐことがないので、井上氏は天皇もタブー視せずに
優れた戯曲を書くことができたのだ。
「書物は化けて出る」というエッセイに井上氏の書物に対する愛が溢れている。要約すると重要なニュアンスが伝わらなくなるので、少し長くなるが関連箇所を正確に引用する。
〈食べること以外に金を使える余裕ができてはじめて数冊の書物を手に入れたよろこびを小生はいまだに忘れないのであるが、うれしいと思ったのはほんの束の間だった。いまでは家中を書物に占領され、こっちの方が小さくなって生きている。「エイ、面倒くさい」と、のさばり返った書物を叩き売ればどうなるか。きっと化けて出る。売ったとたん、その書物が入用になる、というのもその一例だが、たとえば次の如き化け方すらすることがあるのである。
株式会社世界文庫が『圓朝全集』(全十三巻)を復刻発行したのは昭和三十八年のことであるが、小生、これを全巻買い揃えたものの、どうも好きになることができなかった。紙質が硬すぎ、いつも頁が踊っているからだ。そこでひととおり目を通し、重要と思うところはノートをとってさる古本屋に、たしか五千五百円で買い取ってもらった。昭和四十二、三年のことだったと思う。
ところが今年になってこの全集におさめられている、『蝦夷錦古郷之家土産』と『椿説蝦夷なまり』とを読まねばならぬ必要が出来て、どこかの図書館へ出掛けて行かなくてはなあ、と考えていたら、さる古書展に二万円で出ているのを発見、さんざん思案した末、購入することにした。さて届けられた『圓朝全集』をめくっているうちにいらいらしだした。というのはところどころに赤鉛筆で傍線が引いてあるのだが、それがきまって妙な、トンチンカンな箇所にほどこしてあったからである。この全集の前所有者はかなりの愚物にちがいないと思いつつ、さらに頁をめぐるうちに出てきたのは、「日本放送協会」のネーム入りのテレビ用原稿用紙一枚。見覚えのある筆蹟で「もしもぼくに翼があったらなあ、空はぼくのもの、高く高く高く、飛ぶんだ……」と走り書きしてある。忘れもしない、これこそは亡くなった山元護久さんと一緒に作った『ひょっこりひょうたん島』の挿入歌。するとこの全集は……。
なんのことはない、小生はかつて自分が売った書物をまた買い込んでしまったのである。手放したときは安く買い叩かれ、また手に入れれば結構な高値で、だいぶ損をした。がしかし、金銭的なことよりも、「やられたな」と思って気分が沈む。なにしろこの全集は「この全集の前所有者はかなりの愚物にちがいない」と小生自身に小生の口から悪態をつかせたのだ。叩き売られた恨みを十年間も忘れずいまごろ化けて出るとは、女、いや書物というやつもずいぶん執念深いではないか〉(本書137~139頁)。
井上氏は蔵書家だったが、その動機は書物が化けて出ることが怖かったからだ。私も同様の怖れから逃れられない。だから蔵書が増えていく。2005年に作家として第二の人生を始めた頃の蔵書は5千冊程度だったが、既に4万冊を超えていると思う。怖いので数えることもしていないが、本棚の数から推定するとそれくらいになる。私もかつて読んだ本を読み直すと、「なんでこんな場所に傍線を引いたり、トンチンカンな書き込みをしたりしたのだろう」と恥ずかしくなることがある。職業作家を続けていると、読解力がついてくるからだと思う。
井上氏の文章上達法も、実用性が高い。
〈好きな文章家を見つけたら、彼の文章を徹底して漁り、その紙背まで読み抜く。別に言えば、彼のスタイルを自分の体の芯まで染み込ませる。これが第二期工事である。
そして次に、彼のスタイルでためしにものを書いてみる。もっと詳しくは、たとえば自分の親友に「おい、おもしろい話があるぞ」、「おもしろい発見をしたぞ。小さな発見かもしれないけど、おもしろいだろう」と、どうしても聞かせてあげたいと思うことを、彼のスタイルで書く。自分にとっては宝石のように尊いこと、それをだれかに打ち明けずにはいられないというところまで練り上げて、好きな文章家のスタイルで書く。
そんな書き方をしては、お手本の文章と似てしまうではないかと首をお傾げの方もおいでだろうが、これが不思議と似ないのだ。同じ人間が二人といないように、引き写しや、盗作をしないかぎり、同じ文章ができあがるということはない。たとえお手本通りに書こうと、もちろんその影響がここかしこに認められるにしても、できあがった文章にはあなたの個性も刻印されているはずだ。そしてこれを繰り返しているうちに、あなたの個性はかならずお手本を圧倒していく。
そこで大切になるのは、いったいだれの文章が好きになるかということで、ここに才能や趣味の差があらわれるのだ。だからこそ日頃から自分の好みをよく知り、おのれの感受性をよく磨きながら、自分の好みに合う文章家、それも少しでもいい文章家と巡り合うことを願うしかない。つまり文章上達法とはいかに本を読むかに極まるのである〉(本書142~143頁)。
外交官時代、優れた公電(公務で用いる電報)を書き写すという手法で、私は文章の訓練をした。職業作家になってからも、優れた作家の文体を真似るようにしている。ときどき書き写すテキストの一つが、井上氏の戯曲『箱根強羅ホテル』だ。敗戦直前の絶望的な状況をユーモアたっぷりに描く文体から学ぶべきことが多い。
(2019年4月23日記)