ちくまプリマー新書

宇宙の謎から学ぶ、いちばんやさしい哲学入門
プラトンもカントもウィトゲンシュタインも、その思考の原点は「宇宙」への問いだった――

「宇宙に果てはあるのか?」「この世界にはじまりはあるのか?」「広大な宇宙の片隅の、そのまた片隅に住む私たちとはいったい何者なのだろう?」「宇宙人との相互理解は、はたして可能なのか?」――誰もが一度は心をとらえられるこうした問題。じつは、これこそが「哲学」という営みの原点なのです。哲学の歴史をつくりだした、あの大哲学者たちの思考のはじまりにも、これらの問いがありました。『宇宙はなぜ哲学の問題になるのか』より、「はじめに」を公開します。

 この本を手にとってくださっているみなさんは、夜の星空を見上げていろいろな不思議な感じや謎めいた気分を味わったことがありますか。
 おそらく大都会に住んでいる人たちにとっては、夜空をながめてもスモッグにおおわれた空はぼんやりと霞んでいて、街中の灯りの洪水が星のきらめきをすっかり隠してしまっているので、空には何も見えないかもしれません。でも、少しだけ都会を離れて空気の澄んだところに行ってみると、夜空にはけっこうたくさんの星がちりばめられていることを実感して、新鮮な驚きを覚えるでしょう。
 そして、人があまり密集していない山や海に出かけてみれば、夜の空には思いもかけないほどの数の光がぎっちりと詰まっていて、その驚異の世界がまるで自分に強く迫ってくるような感じがして、大きな感動を覚えることもあると思います。
  私たちの生命が生まれた宇宙は、無数の星の光が霧のように深く立ち込めている世界です。しかし、私たちが実際に住んでいる地球は、この広大無辺な大宇宙の片隅のそのまた片隅にある、本当にケシ粒のように小さな星です。地球は銀河のことだけを考えても、その一部分ともいえないほど小さくて、ほとんど「無い」といったほうが早いくらいの、小さな世界です。それでも、私たちはこの極小の世界に住んでいて、毎日の生活のなかであれこれ感じたり、考えたり、悩んだりしています。極端に大きな世界に属する極度に小さな星に住んで、毎日無数のことを感じたり、考えたりして生きている私たち――。
 夜空を見あげてぼんやりと自分の将来について思いをはせているだけでも、私たちは何となく自分自身を超えた、何か非常に大きい、とてつもなく深い世界を目の前にしていることに気づかされます。それと同時に、自分の外の世界の大きさと自分自身の存在の、あまりにもアンバランスな関係に、奇妙な落ち着かない感じをもつかもしれません。
 哲学という思考の営みは、この「何となく自分自身を超えた、何か非常に大きい、とてつもなく深い世界」について私たちが感じる、素朴なミステリアスな感情と密接に結びついています。哲学は、私たちが生きて考えたり悩んだりしているこの毎日の現実を見つめる一方で、とてつもなく大きな宇宙全体という極限の世界のことも同時に意識して、私たちの現実世界をそれとの関係のもとで考えようとします。
 私たちは宇宙のなかで、どのような位置を占めている生命なのだろうか――。

私たちが生まれたのはとてつもなく奇妙なことなのか?

 「宇宙の中の人間の位置」、これがこの本でみなさんと一緒に考えていきたいテーマです。このテーマは21世紀に生きる私たちにとって、とりわけヴィヴィッドに感じられるテーマではないかと思われます。
 というのも、私たちの生きる環境世界は、もはやこの地球上の自然環境とさまざまな人工物の世界に限られるのでなく、宇宙へと大きく拡大しているように感じられるからです。地球温暖化とともに地表から海底、極地の大変動などが問題となる私たちの環境への問題意識は、おのずから「宇宙船地球号」の運命への問いかけに繫がっています。地球全体の資源への問いかけは、同時に太陽や宇宙空間からのエネルギー補給の問題でもあるでしょう。宇宙への探索、そして宇宙との交信ということは、いまではあまりにも身近なトピックだといえるでしょう。
 宇宙についての私たちの今日の関心は、一方では科学技術がわれわれに見せてくれる素晴らしい宇宙のヴィジョンへの関心でもありますが、他方ではそうした宇宙に生きる自分自身の存在への反省、という形でも広がっていきます。前の問題関心が科学の問いであるとすれば、哲学の問題関心は後のほうにあります。
 前世紀の後半から急速に発展した宇宙科学は、ビッグバン理論や多宇宙論、ブラックホールや暗黒物質の理論など、さまざまな発想や考え方によって非常に華々しい進展を遂げつつあります。私たちの宇宙は138億年前に誕生して、現在まで膨張しつづけてきた、「進化する宇宙」だと言われています。この宇宙進化の過程のどこかで銀河が生まれ、さらに太陽系が生まれ、そして地球上に生命が誕生し、最後にとうとう意識をもち、いろいろなことを考え、それを伝えあって知識や科学理論を蓄積し、発展させる生命、つまり人間が生まれました。
 宇宙が進化し、その進化の過程の果てに、その進化について理解したり、説明したりする生物が生まれたとしたら、それは当然のことなのでしょうか。それとも、何かとてつもなく奇妙なことなのでしょうか。
 現在の私たちの「宇宙の中の人間の位置」についての問いかけは、このような形で直ちに、哲学的なミステリーにぶつかることになります。しかし、謎はこれだけではありません。宇宙の進化の果てに私たちが生まれたのだとしたら、同じように宇宙のどこかに、私たちと似たような意識をもち、知識をもち、科学技術をもった生命がありそうな気もします。でも、そんな生命は私たちとどれくらい共通点があり、どれだけ違っているのでしょうか。もちろんこれは、宇宙人がいるのか、いるとしたら私たちと同じような科学をもっているのか、というSF小説の世界でいつも問われている問題です。ただ、哲学ではその話題をもう少し原理的に、理詰めで考えてみようとするのです。
 この本では、現代における宇宙論的問題意識を背景にしたときに思い浮かぶ、このような哲学的疑問のいくつかを取り上げてみたいと思います。

人類の永遠のテーマ

 ところで、「宇宙の中の人間の位置」というこのテーマは、21世紀の私たちだけの問題関心であるかといえば、いうまでもなくそうではありません。この問題は人類にとって、その文明とともに古くからある、ある意味では人類共通の永遠のテーマでもあります。人間はその文明の源から宗教や神話という形をとって、この問題を考えてきました。そして、宇宙の全体を神々の物語として理解しようとした神話の時代の後に、同じ自然世界をもっと合理的な説明の下で理解したいという欲求から、2つの学問が生まれました。
 それらの2つの学問は、あたかも双子の兄弟のようにいつも一緒に成長してきた学問で、それが科学と哲学です。科学は宇宙全体の組成や構造を、客観的な事実の側面から理解しようとします。哲学は、人間にはそうした理解や説明がなぜ可能なのかを問いかけるとともに、そのような能力をもった人間が宇宙の中に存在する意義についても反省します。これらの2つの学問は歴史の中でつねに、いわば不即不離の形で発展してきたのです。
 皆さんもよくご存じのように、科学には歴史を通じた進歩があります。古代の人びとはギリシアでもインドでも、世界が閉じられた有限の大きさで、その真ん中に大地があると考えていました。ところが、西洋の16世紀ころに、地球は太陽の周囲をまわっている惑星であり、太陽系を含む銀河宇宙は無際限な広がりをもった世界だということになりました。これがいわゆる「西洋近代科学」の考え方です。しかし、この考え方もまた、20世紀になって大幅に乗り越えられることになりました。宇宙はその歴史にかんしても、その空間的拡がりにかんしても、無際限ではなくて有限であるが、それは時間とともに膨張していて、しかもいつか収縮に向かうかもしれない――ビッグバン宇宙論を教えられている私たちは、こう考えています。
 したがって、人類の宇宙観はきわめておおざっぱにいうと、右のような3つのステップを踏んできました。いいかえれば、人類の文明の歴史のなかでわれわれの宇宙観は2度、大きな変化を経験したのです。
 さて、いま述べたように、哲学は科学の双子の兄弟です。ですから、科学の進展は哲学の問題意識の進展でもあります。もちろん、哲学の基本テーマそのものは変わりません。それはどこまでいっても「宇宙の中の人間の位置」を問題にします。しかしながら、その想定している宇宙の科学的ヴィジョンが異なれば、哲学の問いの立て方も当然のことながら、変わっていきます。
 そこで、本書では思い切って話を簡単にするために、宇宙にかんする哲学的問いの焦点を3つに絞って、取り上げることにします。つまり、古代、近代、現代の時代に、「哲学から宇宙を考える」という課題として扱われたテーマのなかでも、もっとも重要と思われる問題意識を取り上げてみます。

2019年8月22日更新

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伊藤 邦武(いとう くにたけ)

伊藤 邦武

1949年神奈川県生まれ。哲学者。京都大学大学院博士課程修了。85年『パースのプラグマティズム』により文学博士。現在、京都大学名誉教授、龍谷大学文学部教授。2011年紫綬褒章受章、2018年日本学士院会員に選ばれる。主な著書に『経済学の哲学』『物語 哲学の歴史』(中公新書)、『ジェイムズの多元的宇宙論』『宇宙を哲学する』『ケインズの哲学』(岩波書店)、『プラグマティズム入門』(ちくま新書)、『人間的な合理性の哲学』『パースのプラグマティズム』(勁草書房)、『哲学の歴史 第8巻 社会の哲学』(責任編集、中央公論新社)など多数。