ちくま学芸文庫

哲学史を大きくダイナミックに描き出す
『西洋哲学史――ルネサンスから現代まで』解説

5月刊行のちくま学芸文庫『西洋哲学史――ルネサンスから現代まで』(野田又夫著)より、文庫版解説を公開いたします。刊行から50年を経てもなぜこれだけ読み継がれ、変わらぬ光を放ち続けるのか? 著者をもっともよく知る伊藤邦武氏が野田哲学の核心に切り込みます。

 本書は副題にある通り、15世紀のルネサンスの時代から20世紀の現代まで、西洋哲学約500年の歩みを通覧する哲学史である。叙述はほぼ時代の順番に従い、合計80人前後の哲学者を取り上げて、その理論の概要を説明するとともに、それぞれの時代における西洋哲学の問題意識のありかと方向性を探っている。
 本書が最初に刊行されたのは1965年で、現在から数えるとほぼ50年前ということになる。このあいだに、わが国でもさまざまな哲学史の教科書や解説書が出版されていて、今日では初歩的なものからきわめて詳細なものまで、哲学史を扱った書物はかなりの数にのぼっている。しかし、本書は最近のさまざまな哲学史のテキストと比較しても、けっして古びたところがなく、正確な情報がきわめてすっきりとした叙述の下に提供されている。本書のスタイルは、さまざまな哲学者のプロフィールを丁寧に描きつつ、その理論の核心部を明らかにするというもので、その内容は初心者から専門家まで、どのレベルの読者にとっても十分に役立つだろうと思われる。
 本書の第一の特徴は、西洋の近世から現代までの500年というかなり長期にわたる時代について、その哲学的思想の変転にかんする見取り図を、思い切って1枚の大きな絵にまとめて与えているところにある。西洋哲学にかんするこのように俯瞰的な眺望の提示ということは、著者の野田又夫(1910-2004)が西洋の近世、近代、現代というそれぞれの時代について、きわめて卓越した知識と深い洞察を身につけていることで、はじめて可能になったことである。
 野田は大阪の生まれで、本書の刊行時には55歳であった。彼は京都帝国大学文学部哲学科で田辺元、九鬼周造、天野貞祐らの下で学び、旧制大阪高等学校教授を経て、第二次世界大戦後の京都大学文学部で、田中美知太郎、西谷啓治、高田三郎らとともに西洋哲学史および哲学専攻で教厩をとった。本書出版より以前に、デカルトに関する数冊の研究書の他に、岩波新書で『パスカル』『デカルト』『ルネサンスの思想家たち』などを著しており、本書以降にも、中央公論社「世界の名著」シリーズ(現在の「中公クラシックス」)で、デカルトの巻とカントの巻を担当した。さらに、ラッセルの知的自伝やサルトルのデカルト論など、多くの翻訳も出している。また、彼は第二次大戦後の最初の国際哲学会に、日本哲学会から派遣された代表であり、『モニスト』というアメリカを代表する国際的な哲学雑誌の終身編集員の一人でもあった。
 これらの経歴からも明らかなように、野田は戦後の日本を代表する哲学者・哲学史家であった。そしてそのことが、本書の全体に見られる非常にバランスのとれた哲学への理解と、個々の哲学者の問題意識への親身な関心という、普通にはなかなか両立できない長所を、この本に与えているように思われる。著者はルネサンスのニコラウス・クザーヌスや、17世紀のベーコンのような、われわれからはかなり遠い時代の、ある意味では疎遠な思想家たちにたいしても、サルトルやヴィトゲンシュタインのような非常に身近な思想家にたいしても、ほとんど変わることのない態度でアプローチすることによって、等しくその理論の勘所を平明な言葉で語っている。また、デカルトやライプニッツのような哲学史上最大級の体系的哲学者も、サン・シモンやフォイエルバッハのようなかなり限定された主題の哲学者も、同じように丁寧に扱っている。一言でいえば、時代や思想傾向に大きな偏りがなく、しかも各理論のもつ面白さを曖昧なところのない言葉で伝えているというのが、この本を手に取った誰もが感じるであろう、第一の大きな魅力である。

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 とはいえ、本書の特徴はそれだけに尽きるわけではない。著者は「まえがき」で次のように書いている。「哲学の仕事を謙遜に交通整理の仕事にたとえた人がある。哲学史にもそのことはあてはまる。ここ100年ばかりの混雑を知る人はそういう交通整理の仕事の大切さをみとめるであろう。混乱と事故につけこむいかさま思想もたえず現われているからである。/けれども私自身は哲学史の研究を整理の仕事だといってしまえるほど淡白な気持に成りきっているわけではない。むしろ、めぼしい旅人をその宿まで訪ねて対談し、同感と反撥を覚えながらいろいろと教わる、というのが実状である。こんども19世紀の人々から改めて多くのことを教えられたと思う」。
 哲学史の仕事は交通整理のようなものだが、それだけに終わるわけではない――。この「まえがき」の文章は、よく読むとなかなか含蓄の深いものだと思われる。たとえば、著者のいう「ここ100年ばかりの混雑」とは何を指しているのか、また、「混乱と事故につけこむいかさま思想」にはどんなものがあったのか、と問うてみるのも興味深いことであろう。しかし、著者の現代哲学への批判的言及はとりあえず脇においておいて、ここでは2つだけ、本書がその平明な叙述のゆえに一見そう思われるような、単なる一般的な哲学の通史とははっきりと一線を画すものであることを示す、著者独特の着眼点について触れておきたい。それは、(1)哲学史が「交通整理」といわれる場合の、その思想上の整理の規則や道具とはいかなるものなのか、ということと、(2)著者がここで特に、「19世紀の人々から改めて多くのことを教えられた」といっているのは、何を意味しているのか、という問いにかんする着眼点である。
 まず、西洋の近世以降の哲学史にたいする交通整理、という作業において活用されている規則や道具ということから見てみよう。
 この点についてはⅠ章の「概観――ルネサンスから現代まで」が役に立つ。著者はそこで本書の扱う哲学の発展を大まかにみわたすと「大体6つの時期に分れる」として、その6つの時代を列挙しているが、その説明を少々簡略化して示してみると、これらの時期は次のようにまとめられる。
 (1)15・6世紀、ルネサンスの時代……さまざまな可能性が現れているが、主として汎神論的傾向。
 (2)17世紀、古典的理性主義にもとづく形而上学の時代……真の意味での近世的な自然の見方と、「秩序」と「自由」の思想。
 (3)18世紀、啓蒙主義の時代……市民の哲学というべき経験論・自由主義。
 (4)18世紀末から19世紀前半、カントからドイツ観念論へ……啓蒙主義からロマン主義的形而上学への移行。
 (5)19世紀、科学の分化の時代……哲学の論理への反省と世界観の多元性の意識。
 (6)20世紀、現代の哲学……啓蒙主義とロマン主義の対立の再現と、世界観を新たに選び取ろうとする意欲。
 この一覧から見て取れるように、本書の叙述はもちろん時代区分という大きな区切りに従い、さらには国ごとの特徴も加味して、哲学史の流れを提示しているのであるが、交通整理の道具はそれだけではない。本書は全体が二部に分かれていて、表面上は一応(1)から(5)までが「近世の哲学」、(6)が「現代の哲学」とされている。しかし実際には、(1)から(4)までが本来の近世哲学史の太い流れで、(5)は19世紀の哲学史であると同時に、それとは少し独立に、それまでの流れへの「反省」とそこに見られる多元性の「意識」という、いわばメタ的な役割を担っている。そして、第2部の「現代の哲学」のほうは、この概説のなかで、前世紀の意識を踏まえたうえでの、「啓蒙主義とロマン主義の対立の再現」ないし「ルネサンス時代と17世紀との共存」と見てもよい、とも述べられている。
 つまり、この西洋哲学史500年の全体のストーリーは、ルネサンスから19世紀前半までの400年の間に、いくつかの基本的な世界観、ないし主義の対立のドラマがあって、そのことについての一種の反省が19世紀の100年間でなされた。そして、20世紀の現代ではその反省の下でもう一度、それぞれの世界観を再現したり、あるいは新しい世界観を選ぼうという意欲が見られる、というのである。
 ここで著者がいう複数の世界観とは、非常に粗っぽくいえば、右の見取り図にもあらわれている「啓蒙主義とロマン主義の対立」といってもよいが、もう少し正確にいうと、それは実は3つの立場でできている。すなわち、(A)自然についての科学的認識に重きをおいて、人間存在をその小さな一部と考える「自然主義」(唯物論・実証論)、(B)世界にたいする感情的評価を基礎にして、世界を生命と精神からなる1つの全体と考える「客観的観念論」(汎神論)、(C)世界にたいする人間的主体の自由と尊厳を強く意識する「自由の観念論」、の3種類である。この分類法では、啓蒙主義とは(A)のことであり、ロマン主義とは(B)のことであって、哲学史の流れは正確には2種類の思想の対立というよりも、むしろこの3つの世界観のダイナミックな交代からできている。
 この分類法を使うと、右の六つの時代区分のうち実質的な近世哲学史の部分である(1)から(4)についていえば、(1)は(A)(B)(C)がまじりあっている時代、(3)が(A)の時代であるのにたいして、(2)と(4)の時代は、それぞれが(C)から(B)へと徐々に移行した2つの時代、ということになる。(2)と(4)の時代とは、デカルトからライプニッツへと、カントからヘーゲルへという、西洋近世哲学史のもっとも大きな2つの山を形成している。したがって、西洋の近世哲学史の流れとは、全体として「自然主義」を背景におきながら、「自由の観念論」から「客観的観念論」への移行という運動を何度か繰り返す流れであった、というのが著者が整理した歴史の見取り図の骨格なのである(ここで出てきた世界観の3つの図式については、本書第2部「現代の哲学」のⅡ「分析の哲学と生の哲学」に登場するディルタイの項目のなか――230-231頁――で、詳しく説明されているので、ぜひ参照していただきたい)。

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 さて、以上が著者の念頭にある交通整理としての哲学史であるとすれば、われわれの立てたもう1つの問いである、「19世紀の人々から改めて多くのことを教えられた」といっているのは、何を意味しているのか、という問題への答えはおのずから明らかであろう。
右に指摘したように、著者の思想史の整理法の道具立ては、基本的にはディルタイの世界観論を下敷きにしているのであるが、このような思想史的な「反省」の意識自体は、ディルタイ本人から生まれたというよりも、むしろ19世紀の哲学者たちがそれぞれの立場から、理論的模索のなかで徐々に形成していったものであって、この時代の哲学者たちこそが、20世紀の思想家に劣らず、「世界観の選択」ということの重要性、必要性を訴えていた人々であったのである(さきに、哲学史の仕事は交通整理のようなものだが、それだけに終わるわけではない、という著者の姿勢を見たが、「それだけで終わるわけではない」というのはつまり、哲学史を述べる者も学ぶ者も、整理された世界観を前にして自らの選択を迫られている、ということである)。
 本書の(5)の部分はその意味で、きわめて重要なところであるが、実際に今日までにあらわれた数多くの哲学史の概説書の中にも、19世紀哲学史の説明として、コントからブートルーに至るフランス19世紀思想の流れや、ロッツェ、フェヒネル、コーヘン、リッカート、グリーン、ブラッドリなどを扱った、この部分ほど詳しく明快に書かれたものは1つもない。
 はじめの紹介で記したように、著者はデカルトやカントなどにかんするわが国を代表する研究者である。しかし彼はこれらの哲学者の翻訳や分析を発表する以前に、大戦時をはさんで、ラヴェッソンの『習慣論』やブートルーの『自然法則の偶然性』を翻訳出版している。これらの仕事は著者の師である九鬼周造の指導の下でなされたものであるが、九鬼は当時の日本において19世紀ヨーロッパの思想にもっとも精通した哲学者であり、彼の没後に刊行された『西洋近世哲学史稿』上・下2巻は、今日でもしばしば参照されている哲学史の大著である。本書の(5)の部分はまさに、恩師のこのような成果を継承しつつ、多くの思想家から「改めて多くのことを教えられ」て、新たに書かれた章であると考えることができるだろう。
 私たちは時々、哲学史の勉強と現代哲学の研究とを別々の、独立した営みであるかのように錯覚することがある。しかしながら、20世紀の哲学を代表するラッセル以降の分析哲学や、フッサール、ハイデッガーらの現象学や実在主義が、もともとブラッドリらの観念論やリッカートらの新カント派の哲学との激しい理論的緊張の下で誕生したものであることは、今では広く知られた事実である。それゆえ、現代思想の理論的営為を深く知るためにも、本書はその理解に欠かせない背景的知識をたっぷりと提供してくれる、非常に貴重な情報源なのである。
 なお、最後に、著者が本書の10年近く後に著したもう1つの哲学史の作品についても、一言触れておきたい。本書はルネサンスから現代へと至る西洋の近世以降の哲学史であるが、この歴史はそもそも、より広い世界の哲学の歴史全体から眺めると、どのような特徴と役割を担っているといえるのだろうか。『哲学の三つの伝統』(岩波文庫)は、古代中世の時代と対比される西洋の近世以降の哲学を、洋の東西(インド、中国、ギリシア)全体を見渡すことから浮き彫りにしようとした、もう1つのユニークな哲学史である。そこには、東洋西洋の哲学史だけでなく、著者が親しく接して学んできた西田幾多郎、田辺元、九鬼周造など、京都の哲学者たちについての概観も含まれている。本書によって哲学史というものの奥行きや幅広さに興味を覚えた読者には、こちらの本の併読もお勧めしたいと思う。

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