ちくま新書

人が話すのを支えるのは、聴き手の「聴く力」

人の話を聞くことは本当に難しいことですが、本当に聴けた時には相手の人生を変えるほどの効果があります。著者は、精神科医として、またカウンセラーを育てる立場として、人の話を聴き続けています。そんな著者が解き明かす「聴く技術」。「聴く」ことの驚くべき深い世界へどうぞ。

はじめに


 人は、言葉によって成長します。
 特に乳幼児期は、言葉の獲得と心の発達が密接です。
 子どもは一歳ころから言葉を使うようになり、最初は「ママ」とか、「パパ」とかの一語だったものが、やがて「ママ、来て」と二語文になり、さらに「ママ、ジュース、ちょうだい」などの文章になっていきます。それにつれて、彼らが生きる世界は確実に広がっていきます。
 乳幼児期でもっとも大きな心理発達は、イヤイヤ期に起こります。そこではまったく新しい種類の言葉を覚えます。

「嫌だ、やらない」です。
 
 これは母親への拒絶の言葉です。子どもにとって母親はこの世に生まれてきてからずっと、一番大切で一番信頼できる存在でした。その母親に反抗するのです。第一反抗期とも言われますが、生まれて初めての自己主張です。自己主張というのは他人とは違う自分を出すことです。
 それまではお母さんの腕の中で、あるいはお母さんの後を追いかけて従ってきた子どもが、今度は「歯を磨きなさい」、「着替えなさい」、「ちゃんと座ってご飯を食べなさい」……と言われても、「嫌だ、やらない」と言って反抗します。これが心理的にいかに重大な変化か分かるでしょう。
 この新しい言葉を覚えることで、彼らは自我を拡大します。つまり、それまではお母さんに保護してもらうだけの存在だった子が、自分で主体的に動くことを覚えるのです。イヤイヤ期を越えると、その子は再びお母さんの言うことを聞くようになりますが、それは拒絶も選択できると分かった上での、主体的な選択の結果です。心は大きく広がりました。
 一方、「嫌だ、やらない」という言葉を獲得できずにイヤイヤ期を越えられなかった子がどうなるかというと、彼らは社会(他人)の中で自己主張ができなくなります。例えば、幼稚園で自分のオモチャを他の子に取られても「僕のだよ、返してくれよ」と言えません。「嫌だ、やらない」という言葉を知らないからです。
 イヤイヤ期は、ほとんどの子が自然に乗り越えていく発達段階です。
 その後も子どもたちはたくさんの言葉を身につけて心を拡大していきますが、人生第二の重大な言葉の発見は思春期(第二反抗期)に起こります。新しい言葉は、これ。

「私(僕)のこと、放っておいてよ」です。

 自分はこれから親とは別に生きるよ、という宣言です。思春期にこの言葉を使えるようになることは、精神的な自立を意味します。それがやがて学業を終えた後の経済的な自立へとつながります。思春期の内容はそれまでに培われてきた親子関係によってさまざまです。穏やかに親から離れて、夕食後にスーッと自分の部屋に行ってしまうだけの子もいれば、親との激しい格闘(時には家庭内暴力にまで及ぶことも)を演じる場合もあります。いずれにせよ「放っておいてよ、自分のことは自分でやる」という精神的な成長です。
 そして、大人になる頃、二五歳くらいを境にして社会の中で使われる言葉をすべて使えるようになり、心も安定します。
 しかし、大人になってからも、私たちは時々「新しい言葉」を見つけます。誰かと話をしている時に、ふと相手の言葉に感心して「ああ、そう表現するのか」とか思うことがあります。あるいは、悩みを打ち明けてきた友人の言葉を聞いて「素直だな、あんなふうに自分の気持を言えたらいいな」と感じることもあるでしょう。それは自分の中で詰まっていた気持やうまく言葉にできなかった心の状態を、代弁してくれた時の感じです。
 もし大人の私たちがイヤイヤ期の「嫌だ、しない」や、思春期の「放っておいてよ」のような新しい言葉を見つけることができたなら、人生は再び劇的に変わるかもしれません。

 実は、精神療法やカウンセリングは、この新しい言葉を見つけていく作業です。
 
 そこでは自分を語ることによって、新しい言葉を見出します。
 カウンセリングの中で自分の辛さや苦しさを語っているうちに、自分がより「しっくりする」と感じる言葉に出会います。それまでは何かうまく表現できなくてモヤモヤしていた気持に、ぴったりの言葉を見つけるのです。そうすると、その瞬間、「ああ、自分はそうだったのか!」と納得がいき、自分が広がったような気持になります。
 そういう言葉をいくつか発見すると、自然とその言葉が頭の中に広がり、定着します。新しい言葉が積み重なり、その結果、言葉全体を統率する文法(シンタックス)も変わってきます。そして、最後にはその人の生き方(人生観)が変わります。
 物理学の概念に自己組織化(self-organization)というものがあります。これは、より普遍的な秩序を見つけていく自然界の力です。バラバラだった要素が互いに相互作用を及ぼすことによって結びつき、自発的に秩序を作り上げていくことを言います。その簡単な例は雪の結晶です。大気中の水蒸気は、ある一定の温度条件のもとで美しい六角形の結晶を自発的に作りだします。
 また、遺伝子を構成するDNAは何億年にもわたって核酸という構成要素=分子が自己組織化を繰り返した結果、現在の精緻な構造になったと言われています。より普遍的な秩序というのは、DNAで言えばこの地球によりよく適応して生きていく力を高めることです。脳の神経細胞のネットワークも、長い間の自己組織化の力によって組み立てられてきたと言われています。
 私は、カウンセリングによる新しい言葉の発見と文法の書き換えは、この自己組織化のプロセスと同じものだろうと考えています。さらにその力は神経回路の再組織化にまで至るのではないかとも思っています。
 カウンセリングでなんの気兼ねもなく自由に自分を語れるようになると、この「自己組織化」が自動的に始まります。それは無意識のレベル、つまりまだ言語化されていない気持(感情)のレベルから始まり、いくつかの言葉が生まれ、言葉のネットワークが文法を変え、最後には生き方を変えます。カウンセリングでそのプロセスがどのようにして起こるのかを、これから順を追って見ていきます。
 自分を語ることによって、人が変わっていく、自分の生き方を変えていく。
 人が自分を語ることによって新しい言葉や文脈をいくつ見つけられるか、それがその人の生き方を変える速度と深さを決めます。
 
 人が語り続けるのを支えるのは、聴き手である人の「聴く力」です。

(本書にはたくさんの具体例・事例が登場します。それらはすべて筆者が創作した架空のもの=模擬事例であることをお断りしておきます)

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