ちくまプリマー新書

UFOを「非科学的」と断罪することは真に科学的な態度とは言えない
『わからない世界と向き合うために』より本文の一部を公開

現在の科学理論には合わないものでも「非科学的」と断罪することなく、確信が持てる証拠が得られるまでは不安定な状態に耐えること。それこそが真の科学的態度であると説く『わからない世界と向き合うために』より本文の一部を公開します!
 

UFOは非科学か

 大学に入って本格的に将棋をやってみようと思っていた僕は、入学早々、将棋部の部室を訪ねてみた。大学からの案内に示された場所には2階建ての木造建物があり、その2階に部室があるはずだった。しかし、そこにあったのはあまりに古式ゆかしい(ありていに言えばボロボロの)建物で、建物の中にも、外にも、立て看板や廃材が散乱し、2階に上る階段を踏めばミシミシと音がした。こんな廃墟のような場所で、正常な部活動が正常に行われているとは到底思えず、恐れをなした僕は早々に退散した。しかし、何度確認してもやはりその古式ゆかしい建物の中に部室があることになっており、二度目に訪れた時に思い切って廃材を乗り越え、ミシミシと音がする階段を上ってみた。さらに廃材やガラスの破片が散らかった2階の廊下もギーギーと変な音がしたが、構わずそこを奥へと進むと目の前に「UFO超心理研究会」なる看板が見えた。「ひぇー。なんという所に来てしまったのだ!」、そう思ったことを今も鮮明に覚えている(将棋部の部室は、その向かいだった)。

 田口ランディ氏の小説『マアジナル』に、このUFO超心理研究会をモデルにしたのか、「京都大学鞍馬山UFO研究会」なるものが出てくる。それによると彼らは、鞍馬山の頂上でピンク・レディーの「UFO」を踊ると、空飛ぶ円盤が乱舞するほどやって来ることを発見していたらしい。我々が奇声を上げながら将棋を指しているその横で、そんな研究がなされていたとはまったく知らなかった。当時もっと彼らと話をしていればと、悔やまれる。

「正義の味方」たる科学

 これまでUFOと言えば、何と言えば良いのか、「このような扱い」で紹介されるのが常だった。しかし、昨今、状況は変わった。2020年の4月27日に米国防総省が、「謎の空中現象」としてUFOのような物体が飛んでいる映像を公開したのである(正確にはすでに流出していた映像を正式に米国海軍が撮影したものと認めた)。今までにもUFOの映像や画像と言われるものはあまた存在したが、ネス湖のネッシーのような捏造やトリック映像のようなものという疑念が拭えなかった。しかし、米国防総省が正式に認めたのだから、少なくともあのように見える現象がこの世に存在することは間違いないと言ってよい。「UFOを信じるなんて、非科学的」とか言われたり、僕も当時、「UFO研究会」って、なんのサークルなん? とか思っていたものだが、今やUFO(正確には、米国防総省はUnidentified Aerial Phenomena, UAP と呼称している)は科学の対象となったのだ。

 しかし、未確認飛行物体(UFO)ではなく、未確認空中現象(UAP)と呼称していることからも感じられるように、米国防総省も地球外生命体がUFOに乗って地球に来ていることを積極的に支持しているという訳でもないようである(否定もしていないが)。単にあのように見える現象が、この地球で起こっていることを認めたということである。宇宙人がUFOを操縦しているというのは一つの有力な説明に違いないが、どこかの国が秘密裏で開発している兵器である可能性や、何かの自然現象とか、はたまた宇宙人ではなく地底人の乗り物だ、というような別の説明もあり得よう。

 しかし、こういった一見これまでの常識では説明できない現象が明らかになるのは、どこか気味が悪い。「科学的」であるためには、科学で証明されたものだけを信じるべきという考え方もあり、たとえば「太陽系から一番近い恒星でも4.2光年。仮に光のスピードで移動しても往復8年以上かかる。地球外生命体の飛来なんて現実的にあり得ない」とか、「UFOが急に進行方向を変えるのは、慣性の法則に反している。映像は絶対に捏造されている」とか、理屈をつけて「宇宙人だけは、何とか勘弁して欲しい」というような努力をする人たちが出てくる。できるなら「正義の味方」たる科学に、いかがわしきものたちをすべて退治して欲しいのだ。

 僕自身も宇宙人がいると言われると、どこか不安を搔き立てられる部分は確かにある。研究生活を始めた学生の頃、培養した大腸菌のフラスコを見るたびに、「大腸菌にとっては、このフラスコの中が小宇宙だよな。この地球も、もしかしたら神とか宇宙人とかが、彼らにとってはフラスコのような小宇宙に生命の素を植えただけなのかもしれない」などと思いながら、大量の大腸菌を高温高圧の滅菌処理で全滅させていた。僕も知らないうちに、宇宙人にマイクロチップを埋め込まれたりしたら嫌だし、ある日突然、「滅菌」されるのも勘弁して欲しい。心の中で、そう思わないことはない。

「わからない世界」の中の科学

 しかし、少なくとも現時点で、科学は宇宙人を退治することができない。科学は人類がこれまで得られた知識で作り上げられた体系であるが、これから得られる知見でどんどん発展していく体系でもある。「光のスピードより速いものは存在しない」とか、「慣性の法則」とかいうのも、現在の物理学でそう信じられているだけであり、新しい知見が得られればその理論は変わっていく。理論が先にあって、現実があるのではなく、現実にある現象から学んで、科学の理論が補強、更新されていくのだ。宇宙人が現実に地球に来ているのなら、光の速度より早く空間を移動する手段が何かあるのかもしれないし、現在の生物学の常識ではとても知的生命体は生存できないと思われている、より近い惑星の環境下でも、実は地球型とは違う原理で動いている生命体が、高度な文明を発展させているのかもしれない。

 だから科学的な態度とは、科学の権威を振りかざして、現在の科学理論に合わないものを頭ごなしに否定することではない。真に科学的な態度とは、安易に結論を出さない不安定な状態を、確信が持てる証拠が得られるまでは続けていくということである。「非科学的」と簡単に断罪して安心するのではなく、「わからない状態で頑張り続ける」とでも言えばいいのだろうか。それはある意味、宇宙人がいても仕方ないとあきらめることを意味しており、知らない間にマイクロチップを埋め込まれていようが、普通に、淡々と生きていくしかない。宇宙人を避けるために我々にできることと言えば「鞍馬山の頂上で「UFO」を踊らないこと」くらいなのである。

 

 この世には「わからないこと」や「自分がコントロールできないこと」が多くあり、それもこの世界の重要な一部である。自分に見えているものだけで世界が出来ている訳ではない。そういったこの世の「闇」のようなものに、あれもこれも「非科学的」と、ヒステリックにレッテル貼りをした所で現実は何も変わらない。それらから逃げ切ることは、アラブの王様でも、ディープステートでもできないし、閣議決定しても無理である。その「非科学的」現象がどんなものであっても、堂々と受け入れることからしか、科学は始まらない。お化けがいても、神様がいても、別にいい。それで科学が終わるわけではない。もし神様がお姿を現すことがあれば、「その髪の毛を1本ください」とお願いし、DNA解析ができないのか、神様は非生物でDNAを持たないというのなら、せめて元素分析はどうなのか、と挑む人の営為が科学である。たとえ、その行為が神の目から見れば、いかに滑稽に映ろうとも、である。



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