ちくま文庫

町の本屋として生きる人
『本屋、はじめました増補版――新刊書店Titleの冒険』書評

愛おしく思っている書店の話。

町の本屋として生きる人
鹿子裕文

 僕には愛おしく思っている店が何軒かある。いずれも町の小さな個人商店だ。いくらかお金を使うつもりでそこをたずねると、店番を務めている主人とちょっとした会話を交わすことになる。そうやって店の中で過ごす一時間少々。それは僕にとって、とても大事な時間のひとつで、「じゃあまた」と店を出て行くときに感じる、ほのかにあたたかい気分と後ろ髪を引かれるような感覚は、かけがえのなさの本質を僕の身体に刻んでやまない。
 東京都、杉並区、桃井一丁目。
 JR荻窪駅から歩けば、環八を越えてさらに数分。青梅街道沿いに店を構える「本屋 Title」は、僕にとってそういう店のひとつだ。僕は福岡に住んでいるから、そうそう足を運べるわけではないけれど、この店を思う気持ちは、その地理的な距離とはまったく関係がない。いつも心のそばにあって、灯火のようなものがそこで揺れている。
 さて。
 このたび文庫化された『本屋、はじめました』は、Titleの店主・辻山良雄さんの本だ。二〇一七年に苦楽堂から上梓した自身初の著書である。辻山さんはリブロ池袋本店の閉店を機に、会社を辞めた。そして町の本屋さんを開業することになるのだが、その辺のあれやこれやが、まあなんというか、びっくりするぐらい正直に、そして正確に記されている。それは一種の脱サラ物語であると同時に、これから何かを始めようとしている人々の背中を、そっと押すことになるかもしれない「血の通った参考書」と呼んで差し支えないだろう。
 とにかく辻山さんは、自分の身に起こったことや経験から学んだことを、まったく惜しげもなく披露していく。まるでそこには「なんの秘密もないのです」と言わんばかりだ。三歩進んで二歩下がることもあれば、その下がった二歩のおかげで大事なことを知ったりもする。辻山さんはその様子を、どこか淡々とした筆遣いで描いていく。しかしその淡さの中には、何かを新しく始めるときの新鮮な高揚感がのぞいている。資金の話、事業計画書の話、物件探しの話、契約の話、店舗改装の話。やらなきゃいけないことは山ほどある。その山を夫婦二人三脚、知恵を出し合いながら越えていく。それは甘い夢物語ではない。個人商店を営みながら「これから二人がどう生きていくのか」という現実と生活を見据えた覚悟の話なのである。
 だからかもしれない。開店を迎えた日の話は、胸にじーんとくる。個人商店の船出を、その小さな一歩を、読書という行為を通じて祝いたくなる。おめでとう、辻山さん。でも、これからだよね。そんな余計なおせっかいまで心に浮かんでくる。
 それにしても辻山さんの律儀さは本物である。参考資料として、実際に使用した事業計画書と、水道光熱費の金額まで記された初年度の営業成績表も公開している。文庫版には「その後のTitle」という長い文章も追加された。店をオープンして五年。うまくいったこと。うまくいかなかったこと。変わらず続けていること。少し変えたこと。それは日々の営みから実地で学んだ「個人商店からの報告書」であり、店主・辻山良雄の「町の本屋であり続けること」への強い意思表明にもなっている。
 この読み応えのある増補章で、僕が何より美しく感じたのは、閉店時間を迎えても帰ろうとしない男の子の話であり、そしてもうひとつ、店の前を行き交う人々と挨拶を交わすことが増えたというなんでもない一文である。それはTitleという店が、今では誰かに必要とされている場所になっていて、この町に根づき、溶け込んでいるという何よりの証しであるからだろう。
 東京都、杉並区、桃井一丁目。
 青梅街道沿いにある小さな町の本屋は、やはり愛おしい。
 

 

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