ちくま文庫

グローブ・ジャングル
『鴻上尚史のごあいさつ1981‐2019』ためし読み②

鴻上作品の公演の度、客席に配られるメッセージ=「ごあいさつ」。 文庫刊行を記念して、ためし読みページをお届けします。 第二弾は『グローブ・ジャングル』の「ごあいさつ」をご紹介…… 場所はロンドン。小さな痛みが交差するエピソードです。



「グローブ・ジャングル」
虚構の劇団 旗揚げ公演『グローブ・ジャングル』
二〇〇八年五月一〇日 池袋 シアターグリーン 



 2年前の冬、僕はロンドンの外れのゲストハウスにいました。日本人ツーリスト専用の、一軒家をまるごと宿泊施設にしたものでした。宿泊料金は、ドミトリー形式の二段ベッドで一泊三〇〇〇円ほど。個室は五〇〇〇円。ただし、シャワー・トイレは共同でシャワーの使用は時まででした。
 一軒家をゲストハウスにしているのですから、シャワー・トイレが何カ所もあるはずがないのです。当然、誰かがシャワーを浴びている間は、トイレに入れず(イギリスのユニットバスでしたから)入浴が終わるまで、ずっと尿意と戦わないといけなくなりました。
 どうしてそんな所にいたのかというと、去年の6月、僕は自分の戯曲『トランス』をイギリス人の俳優を演出して上演したのですが、そのために何度もロンドンに行くことになったのです。
 最初はちゃんとしたホテルに泊まっていたのですが、だんだんとゼイタクはできないという状況になって、インターネットで見つけた格安のゲストハウスを定宿にするようになりました。もっとも、このゲストハウスは、基本的には女性専用で、ただ、個室は男性も宿泊可能という、なんだか楽しい場所でした。
 共同のリビングには、テレビとインターネットの端末があって(個室にはなかったので)いつも、誰かがいました。
 当然、僕もメールのチェックのために、ひんぱんにリビングにいたのですが、期待した(わはははっ)ような出会いはまったくありませんでした。
 格安のゲストハウスを選ぶような女性ツーリストはしたたかな人が多くて、平均年齢も高めで、なんとかロンドンで生活する方法を探している人たちばかりでした。
 きゃぴきゃぴして、ぷりぷりしているような女性は、ちゃんとしたホテルに泊まるよなあ、旅先で浮かれているような人は、二段ベッドは予約しないよなあ、と僕はシャワーの音が止むまで、ずっと尿意をガマンしながら、しみじみしたものです。
 それでも一人、二十歳ぐらいの女性がいて、いつもリビングに座っていました。彼女は、なにかあると「私、日本が大嫌いだから」と繰り返しました。乾いた笑いをつけ加えながら、何度も「私、日本が大嫌いだから」と日本語で言いました。
 僕は、自分のメールをチェックしながら、その女性の言葉をいつも聞いていました。
 その時僕は、『トランス』に興味を持ってくれた劇場の芸術監督と会い、上演の可能性を探るためにロンドンにいました。まだ本当に上演できるかどうか分からない時期でしたから、比較的時間があったので、何度も僕はその女性とリビングで会いました。
 彼女は、二段ベッドに戻りたくないらしく、ずっと「私、日本が大嫌いだから」と日本人宿泊客に話しかけていました。話しかけられた日本人は、みんな、彼女の発言に、怒るでもなく、驚くでもなく、普通の対応をしていました。
 僕に、「サラリーマンですか? どうしてロンドンに?」と話しかけて来たので、「僕は、ロックバンドのドラマーなんだけど、クイーンのファンなので、フレディー・マーキュリーのお墓参りに来た」と返しました。
 彼女は、観光で来ていて、これからロンドンのどんな学校に通うか探している途中だと言いました。その口調の中に感じる中途半端な絶望が、僕にそれ以上の会話を続けさせる気力を失わせたのです。
 個室に戻れば、再び尿意が起こり、しかし、誰かがシャワーを浴びていて、哀しい気持ちになりました。きっと部屋にトイレがあると尿意は起こらないんだぞ、と分かっていました。
 行けないと思うから起こるんだと。人間というのはそういうもので、禁止されていたり、止められたりすると、その欲望が起こるんだ。でも、それが自由になっていたらなんでもないんだ。そんなことを僕は、シャワーと尿意の関係で気づきました。
 やれやれと思いながら、ベッドに倒れ込めば、肩がぐきりと痛みました。ロンドンに来る前に医者にかかれば、「五十肩ですね」と言われました。まだ五十代じゃないのに、五十肩なのかよと、絶望的な気持ちになりました。けれど、この絶望もまた、彼女と同じ中途半端な絶望だよなあと、窓の外の冬のロンドンを見ながら思ったのです。
 さて、いよいよ、旗揚げ公演です。2年の準備をへて、9人の俳優たちと新しいことを始めることにしました。もちろん、新しいスタッフたちと一緒に。
 ロンドンの『トランス』公演では、イギリス人だけではなく、多くの日本人の観客も来てくれました。ロンドン稲門会という早稲田大学出身者の人たちが三十人近く、まとめて来てくれました。
 和気あいあいと話していると年配のご夫婦が、“芸術論”をとうとうと語り始めました。ロンドンに来たあの芝居はどうだ、あの俳優はどうだと、次々と断定していきました。それは全部、どこかで聞いたことがあるような話でした。けれど、日本人はみんな年下だったので、黙って先輩二人の話をえんえんと聞き続けました。もちろん、僕も。無表情なまま、ただじっとしている三十人近い顔を見た時に感じた絶望は、いろんな意味で中途半端なものではありませんでした。
 あなたがこの旗揚げ公演を見たと語るだけで、カウンターの片隅で見知らぬ人と分間の幸福なお酒を飲めるだけの持続と魅力を作るつもりです。
 今日は来てくれて本当にありがとう。心から感謝します。あなたのお気に入りの俳優が見つかりますように。あなたのお気に入りの劇団になりますように。


  *              *           *


 グローブ・ジャングルというのは、丸くて、くるくる回る形のジャングルジムです。
 日本人が発案したもので、昔は、わりと公園でみることができました。
 回している時に何度か、子供が巻き込まれるという不幸な事故があって、だんだんと撤去されていったようです。
 ロンドンで一カ月、『トランス』の稽古をイギリス人俳優相手にした経験が、色濃く反映されている作品です。
 レスター・スクエアーの外れ、チャイナタウンに入る所にパブがあって、行けばいつも日本人の男性がいました。
 彼は、日本人と分かると必ず話しかけていました。僕も何度か声をかけられました。
 彼は、もう何年もイギリスにいると言いました。けれど、英語はあまり上達していないようでした。パブでイギリス人に話しかけられても、ドギマギしてうまく返せませんでした。
 彼は毎晩、日本人を探しに、そのパブに来ているんだと、やがて分かりました。その姿が、なんとも切なく、痛く、悲しくて、僕はパブには行かなくなりました。
 何年かして、あの彼はまだいるだろうかと訪ねてみると、パブ自体がレストランに変わっていました。彼は、どこに行ったのだろうかと思いました。
 『虚構の劇団』に書いた作品の中で、自分でも好きなものの一つです。
 その時その時の時代の風を受けながら書いてはいますが、普遍性のあるものになったと思っています。



 

 

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