文章は紙に印刷できるところがうらまやしい。
俺が生業にしている録音された音楽の歴史は、文字が石に刻まれたり紙に書かれたりしてきた歴史よりも圧倒的に短く、長くみても百五十年には届かない。
一世を風靡したと言っていいCDという音楽用のメディアも現在では風前の灯火で、レコード盤で音楽を聴く好事家が若者たちの間でも増えているという話もあるけれど、全体で見れば配信が主流になった。音楽には紙のような確固たるメディア=容れ物がなくなってしまったと言える。
そうなると表現物としての強度が落ちる。
何をもって強度とするのか。そうした疑問を持つ人がいるだろう。例えば、地方の山村で朽ち果てかけた古民家を解体する。随分と古い家で、襖は江戸時代から使われているものに和紙などを重ねて張って直し、長い間使い込んできた。民俗学者が襖の紙をぺりぺりと剥がしてゆくと、この地に落ち逃れた武士の日記の切れ端やら、行商が使い古した帳簿の一部分が出てくる。時に歴史的な発見がある。紙というメディアの強さはこういうところにあると思う。
果たして音楽はどうだろうか。
地方の山村の古民家の襖をぺりぺりと剥がしたところから、誰かの音楽が鳴り出したりするだろうか。楽譜なら発見されるかもしれないが、バッハやモーツァルトの演奏は聞こえない。この時代に楽譜の切れ端で襖を修理する人を見つけるのも難しいだろう。
現在に発表されている楽曲のほとんどは千年後には跡形もなく消えてしまう。ハードディスクやサーバーになら残るという意見もあるだろうけれど、世界中のミュージシャンたちがこの瞬間にも膨大な楽曲を生み出していて、いずれそうした容れ物も一杯になり、産業や資本主義の要請によって順々に削除されて、全てのデータが残ることはありえないと思う。
紙には実績がある。『源氏物語』と作品名をひとつ挙げるだけで説明が終わる。
柴崎友香の『百年と一日』を読むと、紙に書かれた小説や日記などの文章が、時代を超えて読み継がれるところを想像せずにはいられない。
というのも、俺は近未来の人間として、かつての時代に書かれた文章に触れるように、この小説を読んだのだ。もちろん、柴崎友香が小説を書いたのはここ数年のことだろう。けれども、時代とも呼ぶべきそれなりの時間を通過した過去の風景が目の前に現れ、それぞれのストーリーが確かに存在したかのように立ち上がり、そしてまた、将来の読み手に向かって、俺の目の前を過ぎ去っていくように感じられた。百年後の誰かも、俺と同じく昔の民話集を読むような気持ちで、今まさに、この小説を読んでいるのではないかとも思った。
言葉によって、ありありと時空が歪んでいた。
これは文学にしかできないことだ。
静かな文体には、過剰な癖のようなものがない。だから、うっかりすると、これは誰もが書ける文章ではないかと思う人があるかもしれない。ある程度の能力では絶対に無理だ。まったく恐ろしい技術だと思う。
このような才能をどのように評価すればいいのだろうか。書けば書くほど遠のいているように感じて悲しい。
それは実際に時代を超えて、古民家の襖をぺりぺりと剥がすうちに柴崎友香の『百年と一日』を発見し、民話集の一片として読むかもしれない将来の読み手に託したい。
俺は「傑作」以外の言葉を見つけることができなかった。
百年後の誰かも読む本
7月に刊行された柴崎友香『百年と一日』について、ミュージシャンの後藤正文さんにエッセイを書いていただきました。
音楽家であり、短編小説も書かれる後藤さんは本作をどう読んだのか? ぜひともお読みください!
(PR誌『ちくま』2020年8月号からの転載です)