ちくま文庫

あの頃の栗原さん
『はたらかないで、たらふく食べたい 増補版――「生の負債」からの解放宣言』解説

栗原康さんの著書『はたらかないで、たらふく食べたい 増補版――「生の負債」からの解放宣言』の文庫解説を公開いたします。作家・早助よう子さんによる友人ならではの解説です。

 栗原さんとは友人として、ここ十年ほどおつきあいさせていただいている。文章は 饒舌だが、素顔の栗原さんは寡黙で、おとなしい。怒って声を荒げたり、人の悪口を 言ったりするところを見たことがない。いつも黙って、コツコツとお酒を飲んでいら っしゃる、道端のお地蔵さんのような、ありがたいようなお方である。
 わたしたちは友人といっても、恋愛話などしたこともない、しようとも思わないよ そよそしい二人なのだが、一度だけ、
 「もうすぐ彼女の誕生日なんです」
 と、栗原さんが言い出したことがあった。
 つきあい始めたばかりで、よっぽど嬉しかったのだろう。何かプレゼントすんの、 と問うと彼は、彼女は紅茶が好きな人なので、紅茶の詰め合わせを贈ろうと思う、と 言って、静かにほほえんだ。
 わたしは、
 (栗原さん、それはお歳暮だよ。)
 とすぐに思った。
 それは、「お世話になったあの人に」贈るやつだよ、と。
 確か、紅茶の詰め合わせは、デパートから送る、という話ではなかったか。
 ますますお歳暮っぽい。
 でも、口では、
 「へー、いいね」
 と言って、黙っていた。栗原さんの純な瞳を見ていると、自分の、つきあい始めた ばかりの恋人にはもっと気の利いたものの方がいいんじゃないの、そういうのはもっ と気心が知れてから、例えば、十七年目くらいにちょうどいい贈り物なんじゃないの、 という思いがなんだか俗っぽく、いやらしく感じられたのだ。
 わたしは、
 (栗原さんの恋人が、栗原さんのこういう気の利かないところを大切に思って、愛し てくれるおじょうさんでありますように)
 とちょっと祈った。そして、何しろ興味がないのですぐに忘れてしまったのだった が、本書に収録されたエッセイ、「豚小屋に火を放て」によると、この恋愛は、大変 悲しい結末を迎えたらしい。

 で、「豚小屋に火を放て」である。栗原さんにとっては、ブレイクのきっかけだろ う。このエッセイに目を留めた編集者によって、のちに本書、『はたらかないで、た らふく食べたい』にまとまる、雑誌連載が決まった。
 「豚小屋│」が最初に思想誌『現代思想』に掲載されたとき、それを読んだ居酒屋 で、友人たちが口々に、
 「負けたー!」
 と叫んでいたのを思い出す。見たことのない文体で、ひらがなが多く、めちゃくち ゃで、面白かった。
 満を持して雑誌連載が始まった頃は、他の友人も交えて、比較的、ひんぱんに栗原さんにお会いしていた。最近読んだ本、誰かが拾ってきた外国の政治ネタ、友人たちとの会話がそのまま、次号のエッセイに登場することも多かった。
 わたしは、
 「栗原さんは、読んだらすぐ出す、ミルク飲み人形」
 としっかり陰口を叩きつつ、毎号、掲載誌が発売されると同時に本屋に走り、チェックしていた。我ながら微笑ましいが、それらがどんな栗原節となって出てくるか、とても楽しみだったのである。

 エッセイ「ヘソのない人間たち」は、栗原さんが風呂場でヘソを落とした話、として友人の間でも有名だが、実はこの話は対になっていて、もう一つ逸話がある。
 それは、
 「猫を目印にした話」
 という。
 極度の方向音痴で有名な栗原さんが、神楽坂の友人宅を遊びに訪れた際、行く道で、塀の上で昼寝していた猫を目印にしてしまい、数時間後の帰り道ではまんまと道に迷って、結局駅までたどり着けなかった、という、涙が出るようないい話である。

 栗原さんには、熱心な女性読者が多い。
 そういう話を、彼の担当編集者氏からもちょいちょい聞くし、トークイベントなんかをしても、一目瞭然らしい。
 でも本書の単行本が発売されるまで、彼の友人たちも、ひょっとしたら本人も、そんなことは思いもよらなかったのではないか。
 いまとは似ても似つかない端正な文体で、数年前にお堅めの研究書を一冊、上梓したのをはじめ、思想誌や書評紙でも活躍してすでに良い読者がついていたとはいえ、研究者でも活動家でもない大勢の女性たちに、こんなにウケるとは。
 無政府主義は重要だし、面白いけど、日陰の花。
 そう思っていた見る目のないわたしたちは、栗原さんの人気と成功に、度肝を抜かれてしまった。現在のアナキズムの隆盛、関連書籍の出版点数の多さを考えると、たかだか五、六年前の話なのに、大昔のことのようだ。世間にくらいわたしは、自由と解放を求める女性たちが世の中にはこんなにもたくさんいるのだ、ということを、本書の成功を通じて発見したように思う。
 素晴らしいことだ。
 反省するとともに、栗原さんにはお礼を言いたい。

 本書は、彼の数々の著作のなかでも、好きな一冊である。友人として、栗原さんのよさがよく出ていると思う。
 そして何がすごいって、他人の目とか評価を気にしないところ。
 普通、なかなかこうはいかない。もし下心があれば、エッセイはどこか物欲しげになり、読者はすぐに気づくのではないだろうか。しかし、大きくみられようとか、かしこくみられようとかが、一切ない。
 彼のものする姿勢は、いつまでもわたしのお手本である。

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