人気作家が偏執的なファンに山小屋に閉じこめられて、すごい恐怖を味わう ――といってしまうとミもフタもないけれど、スティーブン・キングの『ミザリー』はそういう小説で、それが映画になったとき、どこだかの週刊誌で、映画案内にかぶせて、いろんな作家の方々の経験談をふくめたコメントを載せていた。
どの作家のみなさんも、一様に“熱心な読者”“偏執的な読者”に愛されすぎた経験をもっておられて、どの経験談も、
(うーむ、やっぱり。あるある、これは)
と納得できるようなことばかりで、興味ぶかかった。
もちろん、私にもワープロ打ちの手紙で、
「おまえのエネルギー を
すいとって やる
おまえはそのときから
書けなく なる!」
なーんていう脅迫状だかなんだか知らないけれど、そういう手紙が舞いこむことも、まれにあり、
「いやー、そんな、もともとぽっちりの才能で、エネルギーを吸い取られなくても、いずれ書けなくなりますから」
と思えば、それはそんなにコワイ手紙でもない。
なによりも、こうした手紙のテーマは、わりにはっきりしているから、ありがたい。たぶん手紙を書いた人は余人にしられぬ傑作小説を書いていて、なのに、くだらない(と彼女あるいは彼が思っている)モノを書いている私に対する義憤公憤やみがたく、つい筆をとった、いやワープロを叩いたのだと思えないこともない。
あるいはまた、二週間に一度ほど、便箋二十枚以上にわたって、日々のできごとを、乱れた文字で、きっちりと書いてくる人もいる。
いろいろ読んでみると浪人しているらしく、悶々することもあるだろうなあと思うと、これまた、そんなにコワイものではない。
そういう常連の手紙は見分けがついて、読むまいと思えば読まなくてもすむものだし、なによりも書き手が自己完結している。
つまり書いている人は、書くことが重要なので、読まれることをさほど意識していないのだ。そういう手紙は、(生意気ないい方を許してもらえるなら)邪気がない。
けれど、そうではない手紙というものがある。
その一通はまるで、癒えたはずの病気の再発をつげる医師の声のように無感動に、あたかも死のように突然に、訪れるのだ。
月に二度ほど、まとめて出版社経由で手元にくる手紙は、およそ百~百五十通くらいで、じつにさまざまな封筒でくる。
その一カ月ほどまえの漫画雑誌の付録についたキャラクター封筒などは、たいてい何通か含まれている。ハヤリの封筒もある。
こった和紙の封筒に巻紙の便箋の手紙もあれば、茶封筒に、ルーズリーフをちぎって書いた手紙がはいっていることも多い。授業中に書くのだろう。ふつうの白い封筒に、白い便箋のものもある。
厚手のルーズリーフやノートに書いた手紙も多いし、小説にあわせた手描きイラストが何枚も入っていたりするから、封筒が分厚くてもあたりまえで、封筒の種類、厚さからはなにも判断できない。
そうして、ある時、その封筒はなにげなく開かれる。
中からは、折りたたまれたポスターのようなものがでてくる。
目を射るのは、大きくひらかれた女の、赤らんだ陰部だ。もちろん無修整の。それがまず、まっさきに目に入るように配慮して折られて、封入されている(ことが多い)。
その紙の表面はなにか液体が零れたのか、ごわごわしている(ことが多い)。
私は喉の奥で小さな叫び声をあげ、それを放りなげる。
それはまるで、心あらわれるアニメを見ていたとき、ふいに電波ジャックして入ってくる殺人の実写映像ほどの衝撃で、私の平穏な日常に切りこんでくる異物だ。
なにがなんだかわからないままに、私はそれを捨てることができない。好奇心か、あるいはうまくいえない怒りのために、折りたたまれたものを開く。
それはたとえば、外国製のポルノ雑誌から切り抜いたと思われるカラーヌードで、看護婦の制服をかろうじて身にからませているブルネットの女が、ひどく不自然な恰好で、患者姿の男に強姦されている(というヤラセポーズの)写真だ。
強姦されているわりに、たいそう嬉しげな顔つきのモデルの目は、カッターの先かなにかで、抉られている。
女のむきだしの乳房の部分に、爪きりか、あるいは針金の先でひっかいたような跡が無数にある。
印刷の紙がちぎれない程度には気をつけて、けれど限界ぎりぎりまでひっかき傷をつけた乳房(の写真)は、ゆたかに美しい。
封筒の底から、メモのようなものが出てきて、
「おまえもこうしてやる。されたいんだろう」
などと書いてある。かなり端正な文字で。
その瞬間、私が感じる恐怖は、けっして“熱心な読者”“偏執的な読者”の怖さ―― 『ミザリー』の恐怖ではない。
それは、たまたま未知の人から手紙をもらうのが不自然ではない職業をもった私と、手紙をくれる読者、という関係性からは逸脱した領域の ―― 別の次元の恐怖だ。
彼はかつて私の読者であったことはなかったかもしれないし、読者であったかもしれない。それは重要なことではない。
重要なのは、あるひとりの人間が(おそらく男が)、女というものに抱くささやかな妄想の断片を、望みもしない私に見せようとする衝動、あるいは欲望。それらによって生じる私の衝撃と不快感は、私が“女であるから”であり、つまり彼の悪意の矢は、逃れようのない私の“女”の部分をめがけて射かけられたということ。
それが、救いのない恐怖をよびさます。
それはあの、女なら、決してそうは名付けなかった、愛嬌あふれる“M君事件”と名付けられた事件によって喚起されたものと同質の恐怖だ。
親からもらった名をもつ私。仕事上の名をもつ私。こうありたいと願う私。こうでありえた私。
あらゆる属性の中から、ただひとつ“女”の部分を強制的にひきだされ、そこに照準をあわせた暗闇からの悪意に、私はどう抗議できるのか。対抗できるのか。
私が私であるために受ける不利益は甘受できる。けれど、宿命的に与えられた性に限定して向けられる無記名の悪意は、その無記名性ゆえに、私を激しく傷つける。恐慌におとしいれる。
もし、私が男性作家であったら、これが送られてくるだろうかという怒りが、恐怖と苛立ちの底で、静かにめざめてゆく。
この写真が送られるのは、私でなくてもよかったのだという予感、私の同業者か、アイドルスターか、町内会の女子高生か、あるいは口うるさい女教師であってもよかったのではないか、この写真によって衝撃をうける誰か、つまり女であれば……という思いが、やがて私をどうしようもない無力感にひきこんでゆく。
その時、私は全世界を背にして、あらゆる社会から隔絶されて、どうしようもなく無力で孤独だ。女であるために、孤独だ。
世にいう“M君事件”のとき、たいそう熱心な口ぶりで、熱心さのあまり、もしかしたら幸福そうに見えたかもしれない顔つきで、事件をめぐるさまざまなコメントを発した多くの評論家やコラムニストたちの言説は、私をその深い孤独から救わない。
私のうけた衝撃や恐怖や、苛立ちや怒りや、孤独からはほど遠いところで、それらは華やかな打ち上げ花火のように、あるいは実体のない谺のように響きわたるだけだ。
その谺の群れは、いやおうなく自分の性と向きあわされる者たちの傷ついた沈黙の間を縫うようにして、世に満ちあふれ、反発しあいながら情報を交換しあいながら、自家中毒のような結論をひきだし、やがて次なる獲物をみつけて、他人顔で消えてゆくのだ。
二年に一度くらいのわりあいで、そうした種類の封筒はつつましやかにやってくる。たぶん違う人間、そのときどきで癒されない孤独と欲望をかかえた誰か ―― おそらくは男から。
評論家たちの熱心な言説は、その孤独な、たったひとりの男の子さえ癒せない。投函しようとする手を止めえる〈言葉〉をいまだ持っていない。持たないことに傷ついていない。名も個性も剥ぎとられ、ただ女である一点に向けて暗闇から放射される無記名の悪意を、沈黙の中で甘受している誰かの傷と怒りは、確かにあるのに。