PR誌「ちくま」特別寄稿エッセイ

会話で交わされるもの
会話について・1

PR誌「ちくま」8月号より佃良太さんのエッセイを掲載します。

 会話は意識できないもの。
「何気ない会話」というが、何気なさというものは会話という言葉の中に、既に内包されているように思う。目的も意図もなく自然と発生するもの、それが会話。意識の無さこそが、会話を会話たらしめているのではないか。
 そんな意識の外にあるものだからこそ、僕は会話というものに大きなおそれを抱いている。喫茶店で会話をする。夜道で歩きながら会話をする。その時、相手と僕との間でやりとりされているものはなんだろうか。もちろん使われているのは言葉だが、その言葉の中には、決して意識を向けることのできない、なにか別のものが潜んでいるような気がしてならない。
 そう感じるようになったきっかけは、小学生の頃の経験にある。小学生の頃、僕の家には母の部屋と父の部屋があって、その間には長くて暗い廊下が横たわっていた。今ふたりは離婚しているが、その当時は家庭内別居で、一番仲の悪い時期だった。
 当時の僕は、父と母の会話の中継をするような役割を担っていた。例えば、父が「○月○日に出張へ行く」と言う。僕はその言葉を持って廊下を歩き、母の部屋に行く。預かった言葉をそのまま伝えると、母は「わかった」と言う。僕はまた廊下を歩き、その言葉を父のもとに届ける。会話の運送業のような役割だ。運ぶ言葉は様々で、当時の僕にはわからない言葉もあった。でも、わからないものはわからないまま、発音やニュアンスだけを胸に抱えて、とにかく無事に届けることが僕の責務だった。
 しかしそんな会話の運送を続けていると、父と母の仲はさらに険悪になっていった。しだいに父と母が投げかける言葉にはトゲが目立ちはじめた。だから当時の僕は、ある時から、受け取った言葉をそのまま届けることをやめたのだった。
 僕は、長い廊下の真ん中で立ち止まった。さて、この言葉のどこに、機嫌を損ねる要素があるのか。どうしたらふたりの気持ちが良い会話が完成するのか。僕は、言葉の検品をするようになった。伝えたい本質だけを残し、トゲを抜く。わざとらしくない程度に、機嫌のよさをニュアンスにこめる。僕は、ふたりの、こうであってほしいという会話をメイキングした。
 しかし、それからが不思議だった。僕が、いくら言葉のトゲを抜いても、ふたりの仲は悪化した。むしろ、僕が運送業をはじめる以前よりももっと、険悪になっていくようだった。僕が提供する言葉には、悪いニュアンスやささくれは一つもないはずだった。それに、ふたりは顔を合わさないので、表情や態度はわからないはず。それなのに、ふたりは、僕が運ぶ言葉から、なにかを感じ取っていた。父と母は、言葉を超えたどこかで、なにか別の「やりとり」をエスカレートさせていくかのようだった。
 そうして今がある。
 僕は今でも、誰かと会話をする時、その相手と僕との間に、あの長くて暗い廊下が横たわっているような気がしてならない。そして、僕がいくら丁寧に言葉を梱包しても、会話の言葉は、なにか別のものを相手に届けてしまうのではないか。
 あの頃、廊下に立ち尽くした僕がその手に抱えているものは、一体なんだったのだろう。今でも疑問に思い、おそれている。

PR誌「ちくま」8月号