ちくま文庫

呑み出したら、歴史におぼれた

日本の呑み屋をこよなく愛し、体を張って居酒屋探訪のフィールドワーク(?)を行ってきたマイク・モラスキーさん。東京の街の歴史への考察を織り交ぜつつ、その体験をつづった『呑めば、都』が「ちくま文庫」から刊行されました。モラスキーさんご自身によるPR誌「ちくま」掲載のエッセイを公開いたします。

 私は大の方向音痴である。生まれたときから体内のコンパスが故障しており、いつまでも治りそうにない。しかし、それを補う別の能力を私は身につけてきた。すなわち「肝臓GPS」である。
 よい居酒屋が近くにあると、GPSが「ピーピーピー!」と反応し、暖簾まで誘導してくれる。この特異な能力のおかげで、本や雑誌やインターネットに頼らずとも良い呑み屋を探し当てることができるのだ。
 そして、方向音痴なのに新しい町を探訪するのが好きである。事前に何も調べず、しかも地図なども持参しないで初めての駅に降り立つと、歩き出して十分もたたないうちにすっかり迷子になってしまう。駅がどの方向だったかも、さっぱりわからなくなる始末。ケータイ電話は一応持っているものの、ネット機能が使えないようにしてあるので、結局頼りになるのはわが肝臓GPSだけである。そして、私はやっぱり居酒屋へと導かれるのだ。


 四年前に『呑めば、都』を筑摩書房から出したときには、執筆のための「調査」と称して(はい、大義名分です)、この肝臓にはずいぶんお世話になった――有名無名を問わず都内の何百軒もの呑み屋に突入し、カウンター席で店主や常連客たちと会話を交わしながら酒を食らったのだから。それはさまざまな出会いに恵まれた、楽しい「調査」だった。だが、GPSのもつアルコール分解機能にもだいぶ負担をかけたようだ。
 東京中を呑み歩いていると、この大都会は大変にローカルな町々の集合体によって成り立っていることに改めて気づかされる。その結果、各地の歴史や文化にも自然と興味が湧き、図書館や郷土史料館などに出かけては資料を集め、読み漁った。すると今度は本に書かれた歴史を(あるいは書かれていない歴史も)確かめたくなって、商店街組合関係者から郷土史の専門家まで、直接話を聞かせてもらった。
 こうして呑み歩きに始まり、東京の歴史探索の諸作業までが『呑めば、都』の土台をなすこととなった。〈エッセイ〉という軽やかな一面に、ある程度の歴史研究に基づく〈東京論〉という一面が付け加わったのである。
 それゆえ、副題も(初めに想定していた)「東京の居酒屋」ではなく、「居酒屋の東京」とした。ただし、「居酒屋の東京」という副題がついているのに、第一章はいきなり神奈川県川崎市溝口の話から始まるし(どうも、わが方向音痴は執筆にまで影を落としているらしい)、第二章以降では都内の町しか取り上げていないものの、山手線内の町はひとつも登場しない。これは、いわゆる「周辺の町々」に焦点を合わせながら、東京の多様性・多面性を浮き彫りにしたかったからである。


 本書の執筆中は、呑み屋探索以外の「初体験」や「発見」にもたびたび恵まれた。一例を挙げるとギャンブルがそうである。私は相当の凝り性であることを自覚していて、麻雀や競馬などの賭け事にこれまで手を出したことはなかった。しかし、競馬場に一度も行ったことのない奴が東京中の居酒屋文化について語ってよいものかと自問し、一週間だけ「ギャンブル週間」を設け、競馬場に三回、競艇場と競輪場には一回ずつ出かけたのである。おかげで金をまき散らしながら、それまで気づかなかった東京の一面に接することができた。均質化がますます進んでいる現在、都内における多様な地域文化を確認することができただけでも、本書を著す甲斐があったと思う。
 このたび、『呑めば、都』がちくま文庫から新たに刊行される運びになったことはうれしい限りである。「祝杯」の口実が与えられたこともありがたい。

(マイク・モラスキー 早稲田大学教授)

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