PR誌「ちくま」特別寄稿エッセイ

見えるものについて

見えるものと見えないものとそのあいだ・1

PR誌「ちくま」5月号より小高知子さんのエッセイを掲載します。

 可視光線。電磁波のうち、ヒトの目で捉えられる範囲の波長のものをいう。これよりも長いものは赤外線、短いものは紫外線だそうで、はじめて知ったとき、へえ、我々は赤と紫の間を光として見ているのか、と思った。
 はざましか見えない。わたしが今目にしている、世界のぜんぶだとむやみに信じ込んでしまうあらゆることは、しょせん、なにかとなにかのはざまにすぎない。

 わたしは今京都で暮らしているのだけれど、かつて一度だけ、深夜の大文字山に登ったことがある。当時好きだった男のひとと一緒に。夜、些細なことで喧嘩になって果てしのない言い争いになって、喧嘩というのは基本的に、原因が小さなことであればあるほど、ちぎれるくらいにかなしい。そこは彼の部屋で、貧乏学生ばかりが住む変な造りの変なアパートだったけれど、この世の不条理とか理不尽とか侘しさとか、ぜんぶが今ここを目がけて集まってきてるのじゃないかと本気で思うほど、からだにこたえる夜だった。
 そんなやりきれなさの巣窟から、どういういきさつで抜け出すことにしたのかはもう忘れてしまったけれど、とにかく我々は山に登った。
 真夜中。圧倒的な暗闇だった。彼の持つ小型のハンディライトではほんのわずかしか照らせない。木々に阻まれて月明かりも差さず、足元以外の視野は一切なし。わたしはうまれてはじめて、濃淡のない完璧で均質な暗闇を経験した。不思議なもので、闇に包まれているとは感じなかった。断たれている感覚だった。眼前にあるはずのもの一切が、不可視のレイヤー(層)に入ってしまった、だから見えない、そんな風に思った。みんな見えないところへ入ってしまった。わたしをここに残して。
 頂上は闇が不均一だった。そこから見下ろす京都の街並みはちらほらと明るく、相変わらず暗いは暗いが、それは普段からよく知る、夜特有の闇だった。
「こんな夜景で機嫌とれると思ったら大まちがいですよ」
 弾んだ息が整ったころ、念のため憎まれ口をたたいてみたけれど、彼はなにも言わず、ふいとわたしから視線をはずした。
 灯りのついている家を数えながら、彼と並んで座る。その数の分だけ、ひとがいて生活がある。そこで交わされる罵詈雑言を想像してニヤニヤしていたら、彼が、「今電気ついてる家、みんな喧嘩中かもしれません」とつぶやいたので笑ってしまった。意地が悪い、と言ってやった。
 ライトを持った彼の左手はばかみたいに明るく、わたしはこれからのことを考えていた。来た道を帰ることを、蛍光灯が隅々まで照らす彼の部屋に戻ることを、灯りを消して眺める彼の寝顔のことを。
 見えることはさびしい。見えてしまうからさびしい。目をつむっても見えてしまう、ライトを持った彼の手、光が直接わたしの目に当たらないように角度を調節してあるその手がたまらなくさびしかった。
 あれ以来大文字山には登っていない。あの完璧で圧倒的な暗闇も、夜ふけまで灯りのついた家々とそこで営まれているであろう生活も、好きだった男のひとも、みんな見えない層に入ったまま。

PR誌「ちくま」5月号