『ジンセイハ、オンガクデアル』

歯切れがよくてシニカルで寛容

『ジンセイハ、オンガクデアル――LIFE IS MUSIC』書評

津村記久子さんにとって「ブレイディみかこさんの比類なき持ち味」とは何か? そして、「鮮やかなパンチを見舞ってくる」エッセイは?

 確かな人生経験があって、ためになることを知っている人は世の中にたくさんいるかもしれない。あなただってわたしだって、あなたの両親だって友人だってそうかもしれないし、お子さんや職場にいるずっと若い誰かだってそうかもしれない。乱暴な一般化をすると、この世に生きている人々は必ず何らかの経験を持っていて、その一つ一つは貴重で、別の誰かには何らかの意味があると思う。ただ皆が皆それらを、整理されていて、おもしろくて、読み心地すら良くて、しかも抜群の安定感を持った文章に昇華できるかというとそれはまた別の話だ。なのにブレイディさんの書くものには、経験と文章にまつわる技術が常にそろっている。
 同じミッドライフ・クライシスでも、四十代と五十代のものは異なる。「肉体や容貌の衰えから来る四十代のクライシスと、まわりが死に出してふと自分の人生に思い当たる五十代のクライシスとでは、その質がかなり違うように思える」という言葉の含蓄よ。本書の時間の中で悪性リンパ腫になったという連れ合いさんを心配しつつ、「そういうことがあるのだな」と自分でも極少な覚悟を決めようと思う。こういう受け入れにくい話を、読みやすく、かつ、まとわりついてこないタッチで語ってくれるのは、ブレイディさんの比類なき持ち味だ。
 他にも、たとえば破局したゲイカップルの子どもであるレオの愛に対するニヒリズムや、英国にたくさんいるらしいウッドビー(would-be)という、失業保険を受給しながらミュージシャンを志望していたり、マーケットで古着や自作の服を売っているデザイナー志望だったりする人々を許容する英国の土壌についてだとか、「そうなのか」と思えることはたくさんある。どちらも日本より先進的な英国ならではの話なのだが、ゲイカップルが子どもを授かってそれがゴールではないとか、日本では白い目で見られるのであろう失業保険をもらいながら何か大きなことを目指し、それがたまに大当たりして世界的なスーパースターが出現するという話からは、学ぶことがたくさんあると思う。
 本書で読めるブレイディさんの文章は、同時に強い物語も持っている。本書の序盤に収録されている、ブレイディさんが酒飲みでよりコスパのいい酒を模索するうち、あるフレンチ・ブランデーに行き着いた、という話は、日常雑記のようでいて収束部で鮮やかなパンチを見舞ってくる。うまい作家の短編小説を読んだような気持ちにもなる。ブレイディさんがボランティアをしていた《底辺託児所》の父親が刑務所に入っている凶暴児リアーナと、祖父が元大学教授であるというアレックスの軋轢と、その行方の話も同様だ。周囲に愛されているおおらかな幼児アレックスは、リアーナをどのように受容するのか。そして、エジプトからの移民で父親から虐待されていた、英語を話せない悲しげな幼児ムスタファが、ボールを蹴ることを発見し、小学生に成長したのち、偶然出くわしたブレイディさんに言葉をかける様子は、エモーショナルな要素などほとんどないのに感動的だ。
 本書に登場する、けなげさなどとは程遠い幼児たちや、それぞれに様々な環境の中で身を持ち崩す人々が、それでもどこか愛嬌があって、何かこの先一つでもいいことがあったらいいよなと願わずにはいられなくさせるのは、彼らの態度がとても乾いていて、自分の境遇を誰かのせいにするようなところがないからだろう。「人生を棒に振る権利を俺たちに与えろ」という言葉は伊達ではない。彼らは金持ちではないし、物質や人的資源にぐずぐずに恵まれているわけではないけれども、不幸には見えない。むしろそれらがないと決して幸せになれないという思い込みの方がしょうもないとすら思わせてくれる。それぞれにワルで、それぞれにだらしなくて、それぞれに後悔を抱えた彼らへのブレイディさんの目線は、辛辣なようでいて寛容だ。