ちくまQブックス

あたりまえのことに気づき、驚くことから考えることは始まる──。専門用語によらず、考えるとはいかなることかを日常の言葉で語り続けた文筆家・池田晶子さん。亡くなられて15年が経ちますが、いまだ輝き続ける「哲学エッセイ」を編み直したちくまQブックス『言葉を生きる』から「夏休みは輝く」を掲載します。

 子供たちが夏休みに突入した模様です。
 一学期の最後の日、通知表をもらって、上履きやら給食袋やらをいっぱい抱えて下校する小学生の姿を見ると、たちまちにその高揚感を思い出すことができます。
 小学生の、夏休み。あれらの日々は、なぜあれほどに輝くのだろう。
 やっぱり何より、学校へ行かなくてもいい、ということが、それだけで素晴らしいことだったようですね。私はとくに学校嫌いでも勉強嫌いでもなかったけれども、すごく長い間(と感じられた)、学校へ行かなくてもいい正当な理由が与えられていて、しかもその間、非日常的な遊びの数々が待ち受けていることがわかっているということは、それはもうひどく心高鳴るものでした。お正月を指折り数えて待った記憶はないけれど、夏休みの方は、ふた月も前から逆算して待ってましたね。早く来い来い夏休み。
 なぜ冬休みではなく、夏休みなのかというと、それは当たり前ですが、それが夏であるからでしょう。夏休みが、夏であるということ、これが子供にとっての夏休みが特別なものであることの決定的な理由でしょう。
 子供の時には、このことに気がつきませんでした。たんに夏休みを待っているのだと思っていましたが、よく考えると本当は、それが夏であるところの夏休みを待っていたようだった。それが夏であるからこそ夏休みは素晴らしいのだった。
 子供にとっての夏は、夏という季節であり、かつ長く解放されている時間です。なんと幸福なことに、このふたつが合致し、子供は、その本来であるところの躍動的生命へと還ることができる。すべての人間の本来は生命ですが、とくに子供は原始的な形でそれに近く、そして夏は万物が生命として盛る季節ですから、子供がこれよりもふさわしく輝ける季節はないんですね。
 まーいったい何をして遊んでいたのか、朝早くから日が暮れるまで、照りつける陽の下で夢中で遊んでいたような感じがする。
 早起きして、学校から持ち帰った朝顔の鉢に水をやり、たくさんの花が咲いているのを見て嬉しく、次にラジオ体操に出掛けてスタンプをもらい、午前中に家にいられるとは何という僥倖かと感動し、それからプールへ行ったのだったか、自転車で遠出したのだったか、デパートへ連れて行ってもらったのだったか。本を読むのも遊びのうちだったから、図書館へ通いつめていたこともあったっけ。
 遊び疲れて火照った体で午後、風鈴の音とセミの声を聴きながら爆睡、目が覚めたら覚めたで、夕刻のイベントが待っている。花火だ、夜店だ、お化け大会だと、興奮さめやらず、絵日記は毎日つけていましたが、書くことに事欠くということはありませんでしたね。何もない日は何もないで、それはそれで充実していた。今日は何もありませんでした、一日雨が降っていましたと、ちゃんと文章で書いていた。夏休みであるというそのことだけで、子供は恒常的な興奮状態にいるようですね。
 子供の夏が、なぜあれほどに濃密な時間なのかという理由はもうひとつ、子供の時間が、じつは無時間だというところにあるでしょう。以前、ロゴスに目覚めていない子供という人々は、未だこの世に生まれていないと言いましたが(註記)、同じことです。
 この世に生まれるということは、ある意味で、この世の時間の中に生まれるということだ。前方へ、死へ向かって流れる時間の中に自分がいると認識されるのは、後方に残されてゆく時間が、記憶として認識されることによっています。記憶の成立が時間の成立だ。自分を個人であるとする自我認識の成立も、この時間の成立には関与していますが、いずれにせよ通常の大人は、この前方へ流れる時間認識によって生きている。「去年今年」というあの感慨は、去年の夏、今年の夏、回帰する季節に記憶を重ねることで、人生の一回性を確認することに他なりません。
 ところが子供はと言えば、回帰として思い出されるほどの記憶もない。というより正確には、生命そのものとして現在に輝いている子供の季節には、じつは時間というものが存在していない。子供には時間が流れていない。子供には「現在」しか存在していないのですよ。
 大人の時間が速くて、子供の時間が遅いのはなぜなのかというのも、これで説明できるようです。流れゆく時間として人生を認識している大人は、現在に存在することができない。流れゆく時間の先に予想される死へと地滑り的に落ち込んでゆく大人の時間に対し、子供の時間は、じつはそもそも「時間」ではない。生命そのものとして存在する現在は、その意味では永遠でしょう。だから子供にとって時間は、流れるものでも過ぎるものでもないんですね。ましてや、生命が生命として頂点を迎える季節、子供の夏の日が、濃密な瞬間として止まっているように感じられるのは当然と言えましょう。
 これは、子供が死を知らないということではない。「知る」ということの意味でもありますが、生命が生命として輝くのは、死によって輝くということ以外ではあり得ないから、輝く子供は、死を知っている。しかしロゴス的認識により反省的に知っているわけではないから、それは無時間的な永遠というべきものだ。流れる時間の中で、ロゴス的にこれを知る時、人は超時間的な永遠を知る。「知る」ということの意味をも知る。ロゴスを所有する人間として、これは思春期以後の課題となります。
 ところが、そういう子供の夏の時間、止まって流れないはずの時間が、ある時から急速に流れ出すことになる。言わずと知れた、「夏休みの終わり」、これに向けて地滑り的に落ち込んでゆく時間の非情と悲哀といったら、宿題は終わってないわ、学校へは行きたくないわ、時間にしがみついてでも抵抗したい感じでしたね。ついに最後の一日、来年の夏休みまであと何日だろう、もう指折り始めていたっけか。
 大人になっても夏は来ます。でも夏休みはもう決してやって来ない。来年、夏の気配を感じとる頃、夏を待っているのか、夏休みを待っているのか、よくわからない感じになる。大人になって、勝手に夏休みをとることができ、贅沢な旅行ができるようになっても、子供の夏休みの日々、あの凝縮された輝きにかなうものではないということが、よくわかっている。
 おそらくすべての大人がそうでしょう。すべての大人は、もう決してやって来ない夏休みを待っている。人生の原点であり頂点でもある無時間の夏、あれらの日々を記憶の核として、日を重ね、年を重ね、流れ始めた時間の中で繰り返しそこに立ち戻もどり、あれらの無垢を超こえることはもうこの人生にはあり得ないのだという事実に、今さらながら驚くのではないでしょうか。

(註記)
雑誌「サンデー毎日」2006年5月7日・14日合併号に掲載の次の作品
大人はあの頃を忘れてしまう 『暮らしの哲学』毎日新聞出版に所収

 

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