ちくま文庫

感嘆がとまらない最良のポピュラー音楽批評

舌津智之『どうにもとまらない歌謡曲』書評

「予想をはるかに超えた面白さで、そのあまりの見事さに、私は途中、何度も感嘆のため息をつきながら読み終えた」――待望の文庫化を果たした衝撃のジェンダー&音楽論・舌津智之『どうにもとまらない歌謡曲』へ、大和田俊之さんからエールを頂戴いたしました。

 初めて本書を通読したときの衝撃は今でも鮮明に覚えている。
 私にとって舌津氏は同じ学会で活動するアメリカ文学者の(圧倒的に優れた)先輩であり、なにより私の博士論文の査読委員を務めていただいた恩人でもある。ところが、現在にいたるまで氏とアメリカ文学について話した記憶はほとんどなく、これまで学会の懇親会やメールのやりとりではひたすらJ-POPや歌謡曲などの音楽文化について言葉を交わしてきた。だから氏が歌謡曲に関する本を執筆していると聞いたときはそれほど驚きはしなかったものの、実際に出版された書は予想をはるかに超えた面白さで、そのあまりの見事さに、私は途中、何度も感嘆のため息をつきながら読み終えた。
 本書は一九七〇年代の日本の歌謡曲をジェンダー論の視点で読み解いてゆく。これまでも歌謡曲について多くの作家や批評家が論じてきたが、これほどの理論的精密さと歌謡曲文化全体への深い想い入れ(そして随所に表出するユーモア)を兼ね備えた文章にはなかなか出会えないだろう。英米を中心に蓄積される最先端のジェンダー論を用いつつ、歌謡曲という日本独自の大衆文化を論じる手際の鮮やかさは、文化批評のひとつの理想を体現している。
 日本の大衆音楽史上の変革期であり、ウーマン・リブの時代でもあった一九七〇年代の歌謡曲を次々に俎上に載せ、恋愛結婚、母性愛、愛国心などの伝統的価値観と、そうした規範から逸脱するジェンダーの新しい価値観やキャンプ性(性的奇抜さ)などが縦横無尽に論じられる。
 本書が一般的な歌詞分析に留まらないのは、言葉だけでなくパフォーマンスとの捩れを解きほぐし、その効果を丁寧に検証しているからである。だから辺見マリの「経験」の冒頭部「やめて、愛してないなら」を「ノーと言える主体的女性」の発言と読み取るだけでなく、その「やめてヘッ」と語尾で息を過剰に吐き出す「お色気唱法」に注目することでこの曲の保守性を掘り起こし、さらに奥村チヨの「くやしいけれど幸せよ」のサビで繰り返される「くやしいけれど」の間に挿入される「ン0!」という力みに焦点を絞ることで、そこにフェミニズムの核心を聞き取ることが可能になる。
 日本語に特有の女言葉と男言葉の揺らぎを丹念に追いながら前川清と桑田佳祐にみられる両性具有性を論じる章は、演歌・歌謡曲とニューミュージックとジャンルを横断してみられる性的攪乱を指摘する点で刺激的であるし、一見、性の問題とは無関係に思われる「文字」、「都市」、「時間」をめぐる歌謡曲の歌詞にジェンダー的欲望を読み取る第Ⅲ部はまさに文学研究者の真骨頂とでもいうべきだろう。
 本書を貫く大きな魅力のひとつは、そのテキストの疾走感である。夥しい数の歌詞の引用を挟みつつ、文章のリズムに緩急をつけながら、ときに圧倒的なスピードで議論をドライブさせる。それは著者が「はじめに」で主張するように、歌謡曲が「戦後の日本における最強の思想」である所以、すなわち「聴く気がなくても聴こえてくる」、そして「いつのまにか、メロディーとともに言葉が脳裏に焼き付いている」効果を本書自体が目論んでいるかのようでもある。
『どうにもとまらない歌謡曲』が日本のポピュラー音楽を論じた本の中でも最良の一冊であることは論を俟たない。あとは原書のあとがきで著者自身が告白するように、「「男らしさ」や「女らしさ」の問題を意識しながら歌を聴くようになった」松田聖子を中心に据えた続編=一九八〇年代歌謡曲論がとにもかくにも待たれる、と機会があるごとにご本人には伝えてあるのだが、いつも飄々とした笑顔でやり過ごされるばかりである。本書の文庫化を機に、新しい読者とともに続編の出版を期待したい。

2022年7月15日更新

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大和田 俊之(おおわだ としゆき)

大和田 俊之

1970年生まれ。慶應義塾大学教授。アメリカ文化、ポピュラー音楽研究。著書に『アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで』

サントリー学芸賞)、『アメリカ音楽の新しい地図』(ミュージック・ペンクラブ音楽賞)、共著に『村上春樹の100曲』(栗原裕一郎編著)、『文化系のためのヒップホップ入門』(長谷川町蔵との共著)がある。

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