ちくま新書

社会主義思想の原点を再検討する
『社会主義前夜――サン=シモン、オーウェン、フーリエ』はじめに

サン=シモン、オーウェン、フーリエといえば、空想的社会主義。等式のように覚えている方も多いと思いますが、彼らの思想は地に足のつかない「空想的」なものではなく、今イメージされる「社会主義」ともずいぶん違うものでした。
舞台は格差が広がる一方の19世紀初頭ヨーロッパ。資本家と労働者を融和させ、ともに生きることはできないのか――。そんな「社会」を構想した三者の思想と行動を描く『社会主義前夜――サン=シモン、オーウェン、フーリエ』より、「はじめに」の一部を公開します。

科学的・空想的
 一九世紀初頭にサン=シモン、オーウェン、フーリエが思想活動や実践活動を開始したことで、社会主義という思想系譜が生まれたことは紛れもない事実である。そして、マルクスとエンゲルスは先駆者たちの構想を批判的に検討しながら、科学的社会主義とも共産主義ともマルクス主義とも呼ばれる自分たちの構想を確立していった。
「科学的」という日本語の表現は、英語ならばscientific、フランス語ならばscientifique、そしてドイツ語ならばwissenschaftlichとなる。日本語としてもっとわかりやすいニュアンスを持った表現を選ぶとすれば、「学術的」とか「学問的」とか、そういったものもありえる。
 マルクスとエンゲルスが自分たちの構想について強調したかったのは、きちんと学問的に論理づけて理解できる社会主義への実現可能な道筋という点であった。マルクスとエンゲルスにとってみれば、サン=シモン、オーウェン、フーリエは単なる自分たちの理想にすぎないものを押しつけていた点で「空想的」で、彼らが構想する方法では社会主義社会を実現するのは不可能に思えたのである。
 このような「空想的」という表現は、イギリスの思想家トマス・モア(1478〜1535年)の「ユートピア(utopia)」という造語を語源とする。「ギリシャ語の否定詞であるou」と「場所を意味するtopos」から成立しており、「どこにも存在しない場所」という意味になる。
 こうして生まれた英語のutopian、フランス語のutopique、そしてドイツ語のutopischはしばしば「空想的」や「夢想的」と翻訳されている。とはいえ、「どこにも存在しない場所」というユートピアのもともとの意味も踏まえながら、utopian/utopique/utopischを他の日本語表現に置きかえるのならば、「実現不可能な」といったものもありえるだろう。実現不可能な社会はどこにも存在しないのだから。
 もっとも、こうした三者の思想のあり方、あるいは行動について、マルクスとエンゲルスは否定しているわけではなく、社会主義のさきがけとして評価している。三者の思想や行動があったからこそ、社会主義という思想系譜が生まれたからである。しかし、それらを「空想的」や「実現不可能な」を意味する表現で形容することで、マルクスとエンゲルスは自分たちの「科学的社会主義」を社会主義社会の実現を可能にするもっと優れた思想だと示した。
 さて、「空想的」というマルクスとエンゲルスによる評価について検討するのは、ひとまず後にするとして、そもそもなぜサン=シモン、オーウェン、フーリエの思想や行動を社会主義と呼ぶことができるのかについてかんたんに触れてみたい。つまり、社会主義とはなんなのかを少しばかり考察してみたいのである。
 とはいえ、実のところ社会主義とは相当に多義的な言葉であるため、これという確定的な定義を記述することは極めて困難である。社会主義にどのような定義を与えるかによって、その人物の政治的立場が明らかになってしまうほどである。それゆえ、あくまでもサン=シモン、オーウェン、フーリエの思想と行動を探究するにあたって、最低限念頭に置くべきであると考えられる社会主義の定義を記述してみよう。

民主主義の不完全、資本主義の病理
「社会的なもの(social)」という単語に対して、人びとの主張や行動の指針としての原則や思想を意味する「主義(ism)」という単語が接続しているのだから、まずは「社会主義(socialism)」とは、人びとの主張や行動において「社会(society)」という存在を念頭に置かなければならないとする原則や思想であると言ってよいだろう。
 ここにさまざまな観点がつけ加えられることで、社会主義は多義的になっていく。
 このような社会主義という思想系譜が生まれたころ、つまり今から約220年前の一九世紀初頭のヨーロッパは、歴史的な大転換を経験していた。
 それは民主主義と資本主義の到来であった。政治的にはフランス革命という市民革命が発生した後、その影響によって周辺諸国家でも革命が引き起こされるなど、自由と平等を基礎とする民主主義が到来するとともに、経済的には産業の大規模な発展という産業革命をとおして、資本主義が到来したのである。政治の変動と経済の変動は、互いにその原因となり、あるいはその結果となり、ヨーロッパを新たな歴史的パラダイムに導き続けた。
 民主主義が発展する中で政治的自由と政治的平等が確立していったとしても、経済的自由を基礎とする資本主義においては、”富むもの”と”富まざるもの”の間の格差、いいかえれば「貧富の格差」や「経済的不平等」が必ず生じるものである。産業革命という大規模な産業発展が始まると、さらなる富と利益を手にした富裕層と飢えに苦しむ貧困層、あるいは経営にたずさわり、資産を持ち、社会に対し大きな発言力を確保する「資本家(ブルジョワジー)」と使役されるだけの不自由な「労働者(プロレタリアート)」の間の格差が如何ともし難いものとなった。
 このような二つの身分の格差という問題を抱えた社会が出現したのである。市民革命が自由と平等という価値の確立を目指したにもかかわらず、産業革命が不平等を生み出すとともに、労働者から自由を奪うという矛盾をもたらした。そのような矛盾こそが二一世紀においてなおも社会の根幹を成している。現実の生活における貧富の格差という資本主義の病理を前にして、一人一票の平等を基礎とする民主主義は不完全なままであると言えよう。
 では、二つの身分の貧富の格差を中心として、民主主義の不完全と資本主義の病理という問題をどのようにして解決することができるのであろうか。つまり、資本家と労働者の分断を許容して二つの身分を固定化することも、一方による一方への抑圧や搾取をそのままにすることも拒否して、社会でともに生きる一員として両者を融和させるためにはどのようにすればよいのだろうか。
 サン=シモン、オーウェン、フーリエは、一九世紀初頭の歴史の大転換の中でまさにこのような問題意識に拠って立っていた。そして、彼らは日々の生活を営みながら、さまざまな問題を抱える社会をなんとかしようとしたのである。
 こうした点を踏まえながら誤解を恐れずに今日的な表現を使うなら、サン=シモン、オーウェン、フーリエは〝社会〞企業家や〝社会〞プランナーのような人びとだったと言えよう。
 工場経営者であったオーウェンの場合、資本家と労働者の間の貧富の格差や労働者の悲惨な生活を目の当たりにしながら、実際に企業経営の実践をとおして労働者の境遇の改善を進めた。そのようにして、資本主義社会の矛盾を解消しようと行動した点で、社会企業家のさきがけのような人物であった。
 また、サン=シモンとフーリエの場合、それぞれの生まれ育った境遇は大きく異なるが、両者ともに上述のような社会問題を解決するために、著作の刊行という思想活動をとおして社会のあるべき理想像とその実現方法を広く世の中に提示していった点で、社会プランナーと呼んでよいような人物であった。フーリエが多様性を持った人間の包摂と共生を可能にする協同体を構想する一方で、サン=シモンは資本家と労働者の融和を実現しようと、自由な産業活動をとおして生まれる新しい宗教のあり方を構想した。
 まさに、自分たちの生きる社会をなんとかしたいという強い思いを持ち、その思想と行動において社会という存在を念頭に置き続け、それぞれの立場から社会のあるべき姿についての構想を提示し続けたという意味で、サン=シモン、オーウェン、フーリエにとって社会主義者という呼び名は実にふさわしいのである。
 ところが、サン=シモン、オーウェン、フーリエによって社会主義という思想系譜が生まれた後、この三者の本来的な思想と行動とは必ずしも一致するわけでないままに社会主義が大きく発展していった。したがって、三者に近い立場から社会主義を捉えるのか、三者を「空想的」と形容したマルクスとエンゲルスに近い立場から社会主義を捉えるのか、あるいは他の思想家の立場から社会主義を捉えるのかによって、社会主義の解釈は大きく変化する。社会主義は実に多義的なものとなってしまったのである。
 だからこそ、「空想的」という評価についてはそうあるべきものとして盲目的に受け入れるのではなく、批判的に捉え直す必要があろう。
 また、三者が同じ時代を生きていたとはいっても、上述のように社会主義のために一緒に仕事をしたということはない。そもそも三者の社会主義と呼びうる構想も具体的な点ではそれぞれで大きく異なるのである。

(「社会主義という言葉の誕生」につづく)

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