スタジオでレオス・カラックス監督が見守るなか、原案・音楽を担当したロック・バンド、スパークスが「So May We Start」を演奏する。そこに主演でヘンリー役のアダム・ドライバー、アン役のマリオン・コティヤールなども加わって街へ歩き出す。そのように『アネット』は、スタッフと役者が一緒に顔を見せるオープニングから本編へ地続きになっている。劇中でわざわざ「さあ、始めよう」と歌って物語を開幕し、これは虚構と強調するわけだ。主役の男女は、ヘンリーがスタンダップ・コメディアン、アンがオペラ歌手であり、どちらも舞台が生業である。映画では、舞台だけでなく現実の場面でも、いかにもセット、いかにも書き割り風にして虚構性を強調することをしばしば行っている。
一方、ミュージカル映画では先に歌を録音してから撮影するのが一般的だが、本作は基本的に同時録音だった。オープニングがワンシーン・ワンショットなのも含め、監督の今回の手法は、映画を非編集性の面で舞台に近づけ、現実に近づけるものともなっている。それは、ヘンリー、アンが日常でも虚構を引きずって生きる人間であることと釣りあっているし、本作が舞台以外でも人が歌うミュージカルであることを自覚した手法選択と思える。虚構と現実が、いわばこれ見よがしに混交されているのだ。
『アネット』には、この映画の製作後にアカデミー賞授賞式でウィル・スミスの妻を揶揄する発言をし、彼から平手打ちされたクリス・ロックへの謝辞があった。ロックが一つのモデルであろうヘンリーのコメディアンとしての話芸は毒舌に満ち、はずせば反感を買うものだ。アンのいる上品なオペラの世界とは違う。このため「美女と野人」と称された二人の結婚は話題になる。だが、旧悪が暴かれ人気が下降したヘンリーとアンの格差は開いて摩擦が生じ、酔った彼は彼女を死に追いやる。
しかし、幽霊になったアンは、遺した子・アネットに憑依した。ヘンリーは、歌の才能があるアネットで稼ぐが、人殺しであることを幼い娘に告発される。目を引くのはアネットが、生まれた瞬間から木の人形の姿で登場することだ。同時録音が基本の本作でも、人形の歌は別録音でしかありえない。その歌の上手さは母に憑かれたためだろうし、アネットは父から商売道具にされ、母からは父への復讐の道具とされる。父母には「美女と野人」という人としての格差があったが、アネットは親から道具として使われ、人扱いされなかった。虚構と現実が混交したなかで、アネットが人形という極端な虚構の形で表現されたのはそのためだろう。
娘は、刑務所に入った父と面会する。彼女は人形ではなく、人間の姿で現れる。父母が見ないでいた娘の現実が露出したかのように。しかし、アネットは父とともに歌い、ミュージカルの登場人物であり続ける。舞台人だった父母と同じ虚構をなお結末で演じるのだ。現実と虚構に引き裂かれたその存在のしかたが娘の哀しみをよく表しているようで、強く印象に残った。タイトル通り、アネットに収歛される映画なのである。
PR誌「ちくま」10月号より円堂都司昭さんのエッセイを掲載します。