PR誌「ちくま」特別寄稿エッセイ

見たこともない歯について
体について・1

PR誌「ちくま」11月号より井戸川射子さんのエッセイを掲載します。

 奥の方の歯が痛む、虫歯にはなったことないから、これがその痛みかは未知で分からない。虫歯だったらどうしよう、削るとか、そういうことがあるんだろうと思いながら歯科医に行った。中は白く明るく、硬いスリッパ、背中が下に滑っていく、拭きやすそうな治療椅子。歯医者の体が私の顔に覆いかぶさる、顎が手に包まれる。
 奥歯の表面が、削れてるのね、歯の背が低くなってる感じね。神経のとこまでとは言わないけど、噛みしめ過ぎかな、へこんでて、特に右側なのかなと思いますね、犬歯も本当は、こんなに平らになってるのは良くない。歯医者はそう言い、私は何度も口をゆすいだ。私右側ばかりで噛んでますか、と聞くと、そういうことではない、と歯医者は首を振った。
 体に対して私は無力、という妊娠中によく思ったことをまた思いながら、電車で帰った。寝ている間に歯ぎしりでもしているだろうか、でも一緒に寝てきた誰からも、歯ぎしりしてるなんて言われたことない。そう思い舌でなぞる歯に味はなく、すり減った歯の治療は特になかったので痛いままだ。
 スポーツしているわけではないし、噛みしめることも少ないだろうにと考えながら、歯の今接している面同士や位置、顎に入っている力など、思い出すたびに見極めようとする。食事の時にふと気づく、私は一生懸命咀嚼し過ぎているかもしれない。すごい、打ちつけるようにして噛んでいるかもしれない、分からない、他の人がどのくらい噛んでいるか知りようもない。
 横で同じものを食べている子どもの頬を眺めても、膨らんで上下する、口周辺の動きが見えるだけだ、私には内緒なのだ。子どもの歯はどれもまだ充分に尖っている、カーブさえ、何だか短い直線を繋いでできている。まだ生えてきたばかりの乳歯を羨ましく思う。乳歯はもっと頑張ってくれたらいいのに、二十年くらい生えていてくれたらいいのに、歯だけが、すぐに大人になり過ぎだ。
 抜けた乳歯は、うちでは小さな布張りの箱に入れて取って置いていた、よく取り出し眺めた。鏡でしか見たことない歯というものが、目の前に現れたのが嬉しくもあったのだろう。この太い歯は横部分に虫歯になりそうなへこみがある、良かった、虫歯になる前に抜けてくれた、と満足そうにしていた。子どもの頃って、ずっと眺めていられるものが少なかった、景色などはすぐ飽きた、文字を読めるようになる前、私は時間をどう過ごしていたのだろう。
 乳歯は、私に続いて妹のも抜けるようになったから、箱にいっしょくたに入れられるようになってしまい、私のと妹のが混ざってしまった。目立つ特徴や大きな違いもないので、お互いの見分けはつかなくなってしまい、私はとたんに興味をなくした。
 強いか、思い切りやり過ぎか、でもこうやって食い込ませるしかないし、と思いながら今日も噛み、奥歯の接触し合いに気をつけようと思ってから寝る。私の歯も、寝ている私も私は見たことがなく、不都合さえなければないものとして扱ってしまう、適当にして後悔してしまう。

PR誌「ちくま」11月号

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