PR誌「ちくま」特別寄稿エッセイ

相槌
明るい後悔・1

PR誌「ちくま」8月号よりモデル・小谷実由さんのエッセイを掲載します。

 十七歳の夏休み、二週間オーストラリアに行った。高校のプログラムで、希望者は資格や成績など条件を達成すると行くことができる。二年生でやっと参加できる条件が揃うと、次に足りなくなっていたのは私の気持ちだった。高校生の心や取り巻く環境はめまぐるしく変化していて、オーストラリアに行くよりもライブハウスに通うことや彼氏のことで頭がいっぱい。でも、今更やっぱやーめたなんて言ったら親に怒られそうなので渋々行くことにした。
 滞在して数日が経ち、私はあることに気付いてしまった。まだ「イェア」や「アーハン」のような相槌英語しか使っていない。現地の学校で授業を受け、休み時間はバディと呼ばれる学校生活の面倒を見てくれる子と一緒にランチをしたりするけど、バディも少し恥ずかしがり屋の女の子で、私たちはほぼ微笑みと無言で過ごした。あの時に何か話ができていたら今でも国境を越えてバディだったかもしれない。校内で出会い頭に金髪の男の子に電話番号を聞かれたときも、ポケットに入った携帯を握りしめながら「アイドントハブモバイルフォン」と答えた。あそこで電話番号を教えていたら、映画のようなハイスクールのキラキラを少し体験できたかもしれないけど、ちょっと怖いから私は絶対に電話に出ない。
 ホストファミリーと過ごす時間も、同じくイェアとアーハン連発マシーンと化していた。言ってることはなんとなくわかる、でも喋る言葉を瞬時に考えられない。この二週間で相槌以外にホストマザーに私から発した言葉は、自室で何度も電子辞書を引きながら完璧に作り上げた「私はいま生理中です」と「お土産のお菓子を買いにスーパーに行きたいです」だけだったと思う。私がなんとか迷惑をかけずにここで生活したいと思う気持ちと、最低限のオーストラリアらしいことはして帰ろうという、真面目さと図々しさの両方がうかがえる。この二つの言葉を発したとき、ホストマザーはなんだそんなことかという調子で一言、OK。数十分かけて私が作り上げたコミュニケーションのきっかけは数秒で終了。しかし、その後の言葉の準備がなかったので内心ホッとした。そんなことより! と彼女は裏庭に私を連れて行き、空を見て! と言った。頭上に広がる満天の星に思わず「すごい!」と日本語が私の口から漏れた。絶好のコミュニケーションチャンスだったのに、そこはビューティフル! とかワオ! ぐらいは言ってくれ。そんな感じで相槌英語を盾に押し切る形で私の二週間のオーストラリア滞在は終わってしまった。
 電子辞書を片手に時間がかかってもいいから、自分の納得する言葉を探してあの二週間をサバイブして欲しかったなぁと、年々遠くなるあの夏に後悔をする。こないだ渋谷で観光客の女性に道を聞かれた。道案内は日本で英語を話す機会としてダントツに多い瞬間で、実は苦手だ。右と左を瞬時に判断する能力に欠けている私にとって、英語で説明、左右を正しく伝えるなど、こなさなくてはならない試練が盛り沢山すぎる。ただ、私は新たな言葉の盾を所持している「wait a minute(ちょっと待って)」だ。今はこの言葉を盾にしながら、次に発する言葉をスマホを駆使して自ら確保した少しの時間の中で必死に考えている。そろそろ道案内に使う言葉の盾も考えた方がいいかもしれない。

PR誌「ちくま」8月号

関連書籍

小谷実由

隙間時間

ループ舎

¥2,420

  • amazonで購入
  • hontoで購入
  • 楽天ブックスで購入
  • 紀伊国屋書店で購入
  • セブンネットショッピングで購入