自転車で駅前のスーパーへと走る夕暮れどき。
いるといいなぁと確認しながら漕ぐのだけれど、なかなか出会えない。のら猫の話である。
「あ、いた!」
スピードを落とし、ラーメン屋の店先に寄っていったところ、白いビニール袋だったこともある。目が悪いので、しょっちゅうゴミと猫を見間違えているのだが、猫に見えたのならそれはもう猫ということに決め、確認しないほうがいいのかもしれない。
そうかと思えば、たてつづけに見られる日もある。
のろのろと小道を横切り、遊歩道に消えて行く白黒の猫。
新聞屋の向かいの家でじーっとしているキジトラ猫。
あとは、ほっそりとした黒猫と、毛が長い灰色猫。
縄張りなのだろうか。馴染みの猫ばかりである。
10歳くらいのころだっただろうか。
雨の夜だった。子猫がミーミーとなく声が団地中に響いていた。
「捨て猫かなぁ」
家族そろっての夕食中、おそらくそんな会話になったのだろう。夜が更けても、子猫はなきつづけていた。それで、ちょっと様子を見てこようとなり、傘をさして表へ出た。
子猫は田んぼの用水路のあたりにいて、ずぶぬれだった。とりあえず家に連れて帰ったものの、子猫の色や模様は覚えていない。うちで飼うことはできなかった。
飼えなかった子猫は一匹だけではなかった。たくさんいた。
友達と小学校からの帰り道。ドラマのワンシーンのように、数匹の子猫がダンボールに入れられていたこともあった。
「やさしい方、かってあげてください」
ダンボールに書かれてあるのを見て使命感に燃えた。クラスの男子たちも加わって飼い主探しがはじまった。
誰かが言った。
「大きい家は金持ちやから、大きい家に頼んだらええやん」
それで、大きな家のチャイムを鳴らしては、「子猫、飼ってください」と頼んでまわった。
冷たく追い返された記憶はない。ただ、飼ってもらえることになり、みんなで喜んだ記憶もない。
ダンボールの子猫たちは、最後はどうなったのか。捨てた人が取りに戻ってくるはずだと、もとの場所に置きに行ったのかもしれなかった。そう締めくくらないと、たぶんわたしたちは家に帰れなかったのである。
飼い主を探せなかったあの日の帰り道。
幼いわたしは、自分たちの非力を嘆いたのだろうか。それとも、かわいそうな子猫を引き取ってくれない大人たちを、お金持ちの大人を恨んだのだろうか。
捨てられた子猫の気持ちに同期して、さぞかし、さみしい気持ちで自宅のドアを開けたに違いない。けれども、みなで飼い主探しをした楽しさもまた、嚙み締めていたのだと思う。
家をもたぬ猫たちに付随した、いくつもの思い出。
家猫も、のら猫も、歩く姿は同じであるはずなのに、のら猫のほうがさみしげに映る。そのさみしげな感じが心の中に入り込んでくるのもまた、不思議と心地よく、結局、のら猫を探すのは愁いを求めているからなのではないか、とも思うのだった。