ちくま文庫

恩着せがましい気持……

 私はふだんは謙虚な小市民である。

 小説を書くときも謙虚である。誰にも頼まれていないのに、自ら望んで書く。すると、編集者、校閲者、装丁者、そして、出版社、印刷会社、取次店、さらには、配本してくれるトラックの運転手さんや最終的に本を売ってくれる本屋の店員さんなどなど、多くの人の手を煩わして、自分の小説が読者の元に届く。深く感謝するのみである。

 養う妻子もいないのだから、誰のためでもない。自ら望んで書いているだけである。それなのに、かくも多くの人が私ごときの書いたもののために動いてくれる。経済の流れの中での出版業とはそういうものだと分かっていても、つくづくありがたいことだと思う。

 ところが、今度出版された『日本語が亡びるとき——英語の世紀の中で』を書いているときは、最初から謙虚な気持をもっていなかった。

『日本語が亡びるとき——英語の世紀の中で』は、小説ではなく、エッセーのような評論のような本である。だが、最初から謙虚な気持をもっていなかったのは、そのせいではない。それは、この本が「憂国の書」だからにほかならない。

 憂国の士たちは、自らのために動いているわけではない。世のため人のためと思って、動いている。私もこの本は、我が国、我が同胞、そして我らが言葉、日本語のためと思って、書いたのである。

 海に囲まれた島国に住み、〈自分たちの言葉〉が亡びるかもしれないなどという危機感をもつ必要もなく連綿と生きてきた日本人。それが今、英語という〈普遍語〉がインターネットを通じ、山越え海越え、世界中を自在に飛び交う時代に突入した。二十一世紀、英語圏以外のすべての国民は、〈自分たちの言葉〉が、〈国語〉から〈現地語〉へと転落してゆく危機にさらされている。それなのに日本人は、文部科学省も含め、「もっと英語を」の大合唱の中に生きているだけである。

 この日本語が亡びてしまったらどうするか。百年後も〈話し言葉〉としての日本語はもちろん、〈書き言葉〉としての日本語も残るであろう。だが、真に〈叡智を求める人〉たちが、日本語で読み書きしなくなったらいったいどうするのか——と、私の「憂国の書」は問いかける。

 小さい頃から小説しか読んでこなかった人間である。お金がなくて大学に行けなかった人のことを思うと口にしにくい言葉だが、大学なんぞには行きたくなかった。まわりの女の子と同様、ふわふわした服を着たバレリーナ、女優さん、歌姫が羨ましかった。少し社会意識が目覚めると、感心に、アフリカの奥地の看護婦になる可能性も胸をよぎった。長じて女らしくなると、よこしまな夢も芽生えてきた。金持の妾になるという夢で、主(ぬし)の居ぬまは、日がな寝ころんで小説を読めるからである。しかも、小洒落た家で、綺麗な衣を身に纏って。

 そんな人間が苦手な調べ物をしながら書いた「憂国の書」である。

 書いているあいだ中、どうして、このような本を、この自分が書いているのかという疑問に取り憑かれ続けた。汗牛充棟(かんぎゅうじゅうとう)もただならぬ書を読んだ賢哲こそ書くべき本ではないか。そういう人が書いてくれないから、世のため人のためを思って、こんなに苦労をしているのよ!

 恩着せがましい気持をもった人間ほどうっとうしい存在はいない。あんたのためにこういう苦労した、と言う母親。あなたのためにああいう苦労した、と言う恋人。母親でも恋人でも、こういう気持をもって攻めてこられると、ひたすら逃げたくなる——のはよく分かる。よく分かりつつ、どうしても恩着せがましい気持から自由になれなかった。

 悪夢から解放されるように「憂国の書」から解放され、元通りの謙虚な小市民にようやく戻りつつある今日このごろである。

(みずむら・みなえ 小説家)

※この書評は単行本刊行時のものです。

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