ちくま文庫

ヒロシマの惨禍を風化させてはならない
『広島第二県女二年西組』、六刷にあたって

 このほど、拙著『広島第二県女二年西組――原爆で死んだ級友たち』(ちくま文庫)が六刷になった。昨年のオバマ大統領のプラハ発言、今年のNPT(核拡散防止条約)再検討会議等もあって、核兵器廃絶への関心は高まっているが、戦争や原爆についての風化も激しい。八月六日といっても何の日かわからない若者も増えている。この本で取材した、級友たちの父母もすべて鬼籍に入っている。父母どころか、兄、姉の世代、いや、私自身も何が起こってもおかしくない年になっている。こんなとき、六刷が出たことは本当にうれしい。
 ヒロシマ原爆では強制疎開地の後片付け作業をしていた中学一、二年の年若い少年、少女たちが惨禍に遭い、惨たらしい死をとげた。私のクラスもこの作業に動員され全滅した。このことを、永遠に忘れてほしくないと思い十年がかりでクラス全員の遺族を探し、話を聞いた。最初に筑摩書房からハードカバーで出版されたのは一九八五年、四半世紀前である。日本エッセイスト・クラブ賞をいただくなど反響も大きく、多くの人に読んでいただけた。当時は、中学や高校のヒロシマ修学旅行が盛んだった。本の主人公たちが中学生の年なので、修学旅行の事前学習に招かれることが多かった。「私のクラスメートは、あなた達と同じ中二だったのよ。あなた達の年で死んでしまったのよ」と言うと、中学生たちも粛然とし、話を聞いてくれる。関心をもった生徒の中には、私の本を読み、原爆や戦争と平和について真剣に考えてくれる人が多かった。
 それがいま、ヒロシマ修学旅行は激減している。今の教育体制のなか、平和学習もままならぬようだ。今年三月、大人対象に学徒の慰霊碑をめぐるフィールドワークを行った。三十人以上の参加がありツアーは成功したが、広島市に住んでいる人が、雑魚場地区(爆心から約一キロの地点で多数の少年少女が死んだところ。第二県女の碑もここにある)の碑を見て、こんなところに碑があるなど知らなかったと驚いていた。風化に、私も衝撃を受けた。
 文庫版六刷を多くの人に、できることなら中、高校生に読んでもらい原爆の実相を知ってほしい。年若い、少年少女たちが犠牲になったことを忘れないでほしいと願う。
 今回の六刷にあたり三か所訂正を行い、余聞②を加えた。
 余聞②は欠席生き残りのうち、敗戦後直ぐ転校してしまい、その後の消息がわからなかった藤井秀子さんのことである。秀子さんの娘さんが、あるギャラリーに飾ってあるこの本を見たことがきっかけとなり、藤井さんの無事がわかった。被爆後六十二年目、奇跡的な再会だった。
 三か所の直しだが、この本は一九八五年に初版、その後十七刷を重ね、一九八八年にちくま文庫になり、今に続いている。その間大きな訂正は一度もしていない。私は、ノンフィクションは正確であることを、信条としており、遺族や取材した方から事実と違うといわれたことがなかったことを誇りにしていた。それがなぜ、二十五年たってからの訂正なのか。簡単に言ってしまえば間違いの判明が遅かったためなのだが、これには、原爆の生き残りの複雑な心の痛みの問題なども絡み、何ともいえない気持ちでの、遅い「直し」となった。
 第一は、当日、広島市役所裏(雑魚場町、現・国泰寺町)で作業中被爆した広島第二県女二年西組の生徒で、欠席して助かったのは私も含め六人としたのを七人にした。これは基本的な数字の違いで、なぜこんな間違いをと思われるかもしれない。
 私が、私のクラスの被爆のことを調べようと思ったのは一九七五年、被爆三十年の年である。戦後の学制改革で広島第二県女という学校はとうになくなっていた。県立皆実高校が資料保存校となっているが、一九四五年当時の二年西組の学籍簿はなかった(見つからなかった)。死んだ生徒のことは「学徒報国隊の状況報告」(一九五五年、準軍属として、恩給支給がきまったとき、厚生省に出した書類のコピーと思われる)が見つかったので抜け落ちはないが、欠席(生き残り)のことは私の記憶だけで書かざるをえなかった。
 実を言うと、私は欠席者をよく六人も覚えていたと思っていた。私の学年は一クラスが全滅したが、もう一つのクラスは別のところに動員されていて生き残っている。時間がたつと、あの人はあの時どちらのクラスだったか記憶が混交する。「抜け」を指摘した友人はいなかった。
 初版後十年以上たってから、梶川(坂田)和子さんが「自分も西組だった」といっているということが耳に入った。私は信じられなかった。というのは、梶川さんは目立つ存在だったからだ。背が高くスポーツが得意。当時の九人制バレーボールの前衛でプレーする姿はスマートだった。彼女のような人を忘れるはずはない。本当に彼女が西組?
 だが、考えてみると、思い浮かべる彼女の姿はみな戦後だ。戦中は、スポーツも球技もなかった。彼女は才能を発揮できず、「ただの人」。だから私の記憶にないのだ。自分の記憶力の限界を思い知った。それにしても、なぜ彼女は長い間、私にミスを指摘しなかったのだろう。
 その後、梶川さんは同窓会の記念誌に短い文章を書いた。彼女は体調を崩し、八月六日の一週間前から診断書を出し、市外の自宅で休養していたらしい。私の本に自分が抜け落ちていたことを「少々複雑な気持ち」とだけ記し、「生き残りとしての思いはいろいろありますが、到底書けません」とある。
「複雑」という言葉に私はたじろいだ。おそらく彼女は、私が彼女の存在を忘れていたことを腹立たしく思ったのだろう。だが、生き残りの複雑な思いが「事実誤認」への抗議をためらわせたのであろう。彼女は体調を崩していたが、寝込むほどではなかった。作業を休むと「非国民」といわれた時代である。私にしても、下痢とはいえ歩けないほどではなかった。「非国民」が災厄を免れた。「非国民」は戦後、「運のよい子」といわれた。だが、私は「幸運」を素直に喜べなかった。休まなかった友は「運が悪かった」のか。私が原爆を落としたのではないのにと思いながら、「後ろめたい」のである。梶川さんもきっと辛かったのだろう。だから、長い間、西組だったことを語らなかった。私にミスを指摘することもためらわれたのだろう。ミスを訂正することがいいことかどうか迷った。しかし、ノンフィクションは事実に忠実でありたいと、今回訂正した。
 訂正の第二は原爆の生き残りの一人・山崎容子さんと私が学校で会った日を八日から九日に直した。この日付けのまちがいを山崎さんは初版のときから気づいていたのにずっと言わなかった。山崎さんの記憶には私と会ったことは欠落しており、それを気にしていたらしい。山崎さんは、大火傷を負った山県幸子さんに、トマトを持ってきてあげると約束したが、帰宅途中に気持ちが悪くなり、そのまま寝込んだ。約束を果たせなかったことは彼女の心の傷だった。彼女の記憶はそのことに集中し、ほかのことは意識から消えたのだろう。
 山崎さんの作業欠席の理由は、所用で出掛けるお母さんに留守番を頼まれたからだった。留守番のため休んだのは、病気欠席より辛いものがあるだろうと私は思った。本書の〈生き残りの人々〉の項でも私は彼女の欠席の理由を書いていない。書くと彼女が嫌がるだろうと思ったからだ。あるとき何気なくそのことに触れたことがある。彼女は烈火のごとく怒った。「うちらは、君に忠に親に孝にと教わった。親の言うことを聞くのは君に忠ということじゃと私は思っていた。恥ずかしいことは何もない」。以来、この話をしたことはない。だが、私は彼女の言葉とは裏腹に、彼女の「心の傷」を感じた。多分、彼女はこう言わないと心の整理がつかなかったのだろう。
 山崎さんは沈黙を守った梶川さんとは逆の生き方をした。学校の慰霊祭を支え、語り部として原爆のことを懸命に話した。彼女は話のうまいほうではない。語るのは苦手だったと思うが彼女は努力した。体をこわし、目もひどく悪くなっていたが、車椅子で慰霊祭に参加した。二〇〇九年、慰霊祭に彼女の姿はなく、間もなく、訃報を聞いた。
 もう一つ直したのは吉村恭子さんの項で、恭子さんの遺体を大箪笥の引き出しに入れ焼くところ。吉村恭子さんの場合、看取った方が多かったので、記憶証言にずれがあった。少々直し、恭子さんの姉・良子さんが引き出しに夾竹桃をいっぱい詰めた話を加えた。良子さんは恭子さんと仲がよかった。「あの恭子ちゃんが、こんな無残な死に方をして、引き出しなどに入れて焼くなんて」。悔しくて、残念で、良子さんは庭の夾竹桃の花を折り、引き出しにつめたという。原爆の死者を焼く場面はたくさん聞いたが、花に包まれて焼かれたのはこの恭子さんのケースしか私は知らない。
 夾竹桃というのも気になった。広島の平和公園にはたくさんの夾竹桃が植えられている。当時市の配給課長で後に市長になった浜井信三氏が、救助活動中に夾竹桃の花を見て印象深かったから、という話は有名である。吉村家の庭には夾竹桃が数本あった。「あの時咲いていた花は夾竹桃だけでした」。広島の八月六日は暑い。あの時咲いていたのは夾竹桃だけだったのだ。夾竹桃にあなたもがんばったね、とほめてやりたかった。
 吉村恭子さんの死に関しては、宍戸幸輔氏の『広島が滅んだ日』(読売新聞社)の中にも記述がある。宍戸氏は陸軍大尉中国軍管区参謀、親戚の吉村家に寄宿していた。詳細な記録だが、恭子さんを焼く場面は「彼女の亡骸は白い毛布を敷き詰めた戸板に乗せられ、どこで見つけてきたか可愛い野花が捧げられていた」とある。引き出しも夾竹桃もない。記憶は完全に違っている。原爆に関してはこうした小さな食い違いがよくある。自分の一番の関心事だけが記憶に残り、それ以外のことは記憶から欠落する。宍戸氏にとっても寄宿している家の娘さんの死は大きな事件だろうが、死体を焼く場面は印象が薄かったのだろうか。私は引き出しを抜き、花をいっぱい詰めた肉親の記憶を取る。
 訂正のことをくどくど弁明した。あるいは読者の方は、それほど大きな直しではないのにと思われるかもしれないが、どの訂正にも生き残りの複雑な思いが絡んでいる。原爆は死者だけでなく生き残りのものにも墓場までつづく「心の傷」を残す。私自身、この本を、友への鎮魂の思いで書いたが、初版から四半世紀たっても悲しみはおさまるどころか、なお痛みは深い。
 私が心の傷を忘れられる日があるとすると、それは、核兵器が完全に廃絶される時と思っている。被爆者のできることは実相を後世に残すことしかない。戦争を知らない若い人々にとりあえず、この本を読んでくださいとお願いしたい。

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