茨木のり子の詩に「詩集と刺繍」というのがある。
本屋に出かけて、詩集のコーナーはどこかを尋ねたら、刺繍の本のぎっしりつまった一角に案内される。二つの「ししゅう」の共通点は「天下に隠れもなき無用の長物/さりとて絶滅も不可能のしろもの」と思いながら、「せめてもニカッと笑って店を出る」—— という詩である。
詩人に与えられてしかるべき位置と敬意が欠けているこの国では本屋のほとんどに詩集のコーナーがない。ごく稀にそれがある店を私はいくつかは知っているが、そこでも他のコーナーとちがう特徴がひとつある。
「一人一冊」
一人の詩人につき、詩集は一冊ずつ、が通例である。例外がひとり。谷川俊太郎(相田みつをを詩人と呼ぶ場合はもうひとつ例外がふえるが)。
「一人一冊」は「一人一殺」という戦前の右翼テロの標語を連想させる。殺伐な光景である。
なぜ、そうなったのか。
いろいろな説明が可能なのだが、他ならぬ茨木のり子の詩のなかに直截な答は在る。
例えば「疎開児童も」という詩。
私もそのひとりだが、かつての疎開児童たちは「乱世を生き抜くのに せいいっぱいで/生んだ子らに躾をかけるのを忘れたか」、その二代目は「躾糸の意味さえ解さずに」三代目を生む。この詩の結びはこうだ。
佳きものへの復元力がないならば
それは精神文化とも呼べず
もし 在るのなら
今どのあたりで寝ほうけているのだろう
あるいは「時代おくれ」という詩。
車、ワープロ、ビデオデッキ、ファックス、パソコン、インターネット……自分が持ってない、見たこともない「便利なもの」を列挙したうえで、「けれど格別支障もない」。
そんなに情報集めてどうするの
そんなに急いで何をするの
頭はからっぽのまま
精神文化を死語扱いし、「速さ(フアスト)」のみを価値とする社会では、詩人も詩集も生存の余地は狭い。にもかかわらず、いや、そうだからこそ、茨木のり子という詩人は強い存在感を持ち続けた。
私自身について言えば、横っ面を思い切り張り飛ばされているような感覚でこの人の詩を読んできた。しかもそれが快感だった(私にはそんな趣味はないのに)。
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ(「自分の感受性くらい」)
今回、文庫化されることになった詩集『倚りかからず』の表題詩は、自分のやっているニュース番組で朗読したこともある。
「ながく生きて/心底学んだのはそれぐらい」と言い切る、人生観照の極点に在るような詩である。
茨木のり子の作品群が、心に響く強いメッセージ性を持ちながら、それが単なるアジテーションに終らないのは、夾雑物をどこまでも削ぎ落として、それでも残ったわが言葉のみを紡ぎ出しているからだと思う。
そして、それこそが秀れた詩人と詩のもたらしてくれる愉悦なのである。
愉悦と言えばもうひとつ、この詩人の資質で際立っているのは、自分をふくめて人間のやっていることを「笑う能力」である。同名の詩はその好例だが、激しいことを言っているように見える他の詩でも、それを包み込むユーモアが漂っている。ユーモアとはもともと「人の気」のことだそうだが、茨木のり子の詩には人間の気配が溢れているのである。