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『82年生まれ、キム・ジヨン』の謎を解く――語り手は誰なのか?

『82年生まれ、キム・ジヨン』(チョ・ナムジュ著 斎藤真理子訳)をめぐる対談

『82年生まれ、キム・ジヨン』(チョ・ナムジュ著 斎藤真理子訳)について、まだ語られていないことがある。 この本の語り手は本当は誰なのか? その他、仕掛け、翻訳の苦労などについて、本書の翻訳者である斎藤真理子さんと、書評家の倉本さおりさんが語り合う。下北沢のB&Bで2019年1月18日に行われたトークだが、いま明かされる話がある。 現在発行部数13万部(2019年7月現在)の本書は、今後も、映画化、欧米での刊行予定など、今後も話題満載!

 

■『キム・ジヨン』であえて避けられていること

 

倉本 斎藤さんは2017年、2018年と韓国の女性作家の作品を次々と訳されました。例えば、ファン・ジョンウンの『誰でもない』(晶文社)。ファンさんは『野蛮なアリスさん』(斎藤真理子訳、河出書房新社)という作品も出してる方で、持たざる者が持たざる者を踏みつけにせざるをえない世界を緻密に描いていますね。

斎藤 ファン・ジョンウンさんは本当に描写力がすごくて、日々擦りきれていく心の隅々まで書ける人。浴衣の布が擦りきれていくと、布目の縦糸と横糸が見えるじゃないですか。その糸の繊維の太さの違いみたいなことまで書ける人です。

倉本 そう。「上流には猛禽類」(『誰でもない』所収)という短篇の語り手の女の子は、自分とは家庭環境が違う、生活基盤のゆとりが全く異なる男の子と付き合っている。彼氏の家族はすごく良い人たちで好意的に接してくれるんだけれども、やっぱり会話や行動のはしばしから乗り越えられない境界線がじっとりと浮かびあがってくる。

斎藤 格差問題は韓国の小説、どれを読んでも当然のように影を落としているんですが、逆にいうと、『キム・ジヨン』はそこには踏みこまないで、あえて物事を単純化しているわけですね。

倉本 格差の問題に全部集約されてしまうのを巧妙に避けてるということですか?

斎藤 そうなんです。例えばこの本で女の一生を描くとしたらとても重要なポイントを二つ避けているんです。一つは、セックスですね。初体験がないでしょう。生理のことはいっぱい書いてるけどそれがなくて、また、いつの間にか結婚してるんだよね。ロマンチック・ラブ・イデオロギーに関することは全部切ったんだと思いますね。チョ・ナムジュさんが言いたいのは、どんなに夫が良い人でも、お母さんが素晴らしい女傑でも、それだけでは守れない。医者や、カウンセラーだけではどうにもならないことがいっぱいあるということだと思います。

倉本 たしかに、ジヨンの夫は一般的な男性像の平均的なリテラシーからすると、理解のあるほうではあるんですよね。

斎藤 この本が韓国で100万部を突破したときに、特別版が出たんですね。そこに掲載されているインタビューで、男性記者が、夫のチョン・デヒョンさんという人は韓国人としては相当に良い夫だと思いますと言ったら、チョ・ナムジュさんは限界はあるが良い夫として書いたと答えていましたね。

 

■泣くか怒るか

 

斎藤 私は翻訳した本が出るたびに、読者の方の感想を聞いて初めてその本の価値がわかることが多いんです。今回これを読んでくださった方たちの感想に、読み進むのがつらい、泣いちゃったというのがとても多い。私はそんなにたくさんの人が泣くと思っていなかったわけ。韓国の読者のレビューでは、泣きはしないんですよね。憂鬱になったとか、もう腹が立って本を捨てたくなったとかはあるんだけど。

倉本 もしかしたら日本の女性たちは、腹が立つという感情をできるだけ自覚しないように強いられてきたのかもしれませんね。

斎藤 そうですね。悔しいときに怒ったり泣いたりして、自然な発露として抑えていたものが涙として出てしまうと聞く。でも、私の周りの日本のおばさんたちは泣きはしないような気がするんです。とはいえ今の時代の悩みは70年代・80年代のものとは全然質が違うんですよね。システムが整ってるのに使えないという。

倉本 そう、有休とか育児休暇とか制度としてはあるけど、実際には取りにくい。

斎藤 自分たちがしっかりしなかったからこんなに後輩たちが悩んでるんじゃないかという気分が私にもあります。韓国の女性の感想で、“自分は敏感なフェミニストではなくて、そういった部分には鈍かった。セクハラっぽいジョークを言う人がいてもそのまま受け流してきたけど、本当はものすごいつらかった”って。もうこれは日本の女性たちと100%重なりますね。“この小説中の淡々とした厳密な描写の中に、不当なことがものすごくよく現れている。世の中に多くのキム・ジヨンがいるということを自分を含めて改めて認識させられる。小さな本だけど強い力がある”というコメントでした。

 

■フェミニズムとK-POP

 

倉本 日本で医大を受験した女子学生の点数が最初から減点されていたという問題が発覚したじゃないですか。あのニュースを見たとき、てっきり1980年代ぐらいに起きた出来事かなと思ったら、2010年から2018年までずっと続いてたの? と驚いて。小説の中だけのディストピアだと思ってたものが、現実なんだと思って。

斎藤 韓国では、かつては上野千鶴子先生の本などが輸入され、いっぱい読まれてました。フェミニズムでは日本の方が先進国ということだったと思うんですけど、韓国社会は非常に変化が早いので。

倉本 いまは逆転してますよね。

斎藤 女性問題関係については2倍以上のスピードだと思います。私が90年代に韓国に行ったとき、周りの女子学生たちがセクハラ的な感じのジョークに全く違和感を示さないので、日本から行った私とか在日韓国人の女の子たちは少し驚いたんですよ。70年代に日本でウーマンリブの流れがあったころ、韓国はそれどころではなかったので、そういう文化革命的なエポックを経てないからかなとか思ってたんだけど、今は全然逆よね。

倉本 そうそう、K-POPのガールズグループを見てても、例えばMAMAMOOなんかは媚びる感じじゃない。むしろ戦闘的なハイレグの服を積極的に着たりして堂々としてる。

斎藤 日本のかわいい文化というのが全然通用しない。日本の女子中高生もK-POPの方がかっこよくて好きと言うし。

倉本 そうなんですよね。なんかK-POPグループがいっぱい集まる祭典にこないだ行ってみたんですが、そこには10代の女の子はもちろん、男の子のファンもカップルもいて。BTSを、彼らのコスプレみたいなファッションで決めた男の子が心から楽しそうに応援している。例えば、「キム・ソクジン!」って叫んでいる人たちの声の中に明らかに中年男性の声が混じっているのが聞こえたんですよ。良い時代になったなと思って。日本の女子高生のファンがRed VelvetやTWICEとかのかわいくて格好いいガールズグループにキャー! って言ってて、でも等しく男性K-POPグループにはワー! と言ってるというフラットな状況ですね。

斎藤 だから誰かが誰かに媚びるための音楽を踊るという感じではない。

 K-POPのアイドルの素晴らしいのは、ジェンダーに関しても意識尖鋭じゃないといけないというのがあって。社会の問題をちゃんと本を読んで勉強して咀嚼して言語化していくスピードが早いですね。

 

■最低の面接

 

斎藤 『キム・ジヨン』の映画化で主演するチョン・ユミが、昔『私のチンピラな彼氏』という映画に出ていました。その映画では、ヒロインが就活で苦労するわけ。中途採用の試験を受ける女性を演じているんですが、キム・ジヨンみたいに面接でひどい目に遭うんです。やっと面接までこぎつけて行くと、「土曜日の夜という歌知ってる? ちょっと歌って踊ってみて」と言われる。しょうがないから彼女は立ち上がって、わりとミニ丈の就活スーツ着たままで踊って歌うんですけど、あんまり上手じゃないのね。それを見ながら面接官の男が二人でクククククッて笑うんですよ。それで、あんまり笑われるからおかしいなと思って歌うのやめるわけです。すると面接官が、「どうしたの、なんで続けないの?」とか言う。彼女はそれ以上歌えなくなって出ていこうとするんですが、出ていく寸前にドアの前でパッと振り向いて、「いつもこういうふうに面接するんですか?」って言うんですよ。「あなたたちの習慣ではこうかもしれないけど、いくら私たちが弱者だからって人間的な最低限の待遇はするべきでしょ!」ってはっきり言ってから部屋を出るんです。二人の最低な面接官は映画の中ではちょっと気まずそうになる。こういう、言うべきときに正論をはっきり言う姿勢というのはちょっと見習うべきではないかと思いますね。

倉本 たった今思い出したんですけど、私と同世代の女の子が超有名出版社の面接試験を受けに行ったときに、「例えば作家から枕営業をふっかけられたとしたとします。君はどうする?」という質問をされたらしくて。

斎藤 そんなこと男の志願者に絶対言わないよね。

2019年7月18日更新

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斎藤 真理子(さいとう まりこ)

斎藤 真理子

翻訳家。訳書に、パク・ミンギュ『カステラ』(共訳、クレイン)、『ピンポン』(白水社)、チョ・セヒ『こびとが打ち上げた小さなボール』(河出書房新社)、ファン・ジョンウン『誰でもない』(晶文社)、チョン・ミョングァン『鯨』(晶文社)、チョン・スチャン『羞恥』(みすず書房)、チョン・セラン『フィフティ・ピープル』(亜紀書房)、チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』(筑摩書房)、ハン・ガン『回復する人間』(白水社)などがある。『カステラ』で第一回日本翻訳大賞を受賞した。 photo:©Yuriko Ochiai

倉本 さおり(くらもと さおり)

倉本 さおり

ライター。書評家。毎日新聞文芸時評「私のおすすめ」、小説トリッパー「クロスレビュー」担当のほか、文藝「はばたけ! くらもと偏愛編集室」、週刊新潮「ベストセラー街道をゆく!」連載中。『文學界』新人小説月評(2018)、『週刊読書人』文芸時評担当(2015)。共著に『世界の8大文学賞 受賞作から読み解く現代小説の今』(立東舎)がある。

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