私たちの生存戦略

第一回 もうひとつの世界

日本アニメ界の鬼才・幾原邦彦。代表作『輪るピングドラム』10周年記念プロジェクトである、映画『RE:cycle of the PENGUINDRUM』前・後編の公開をうけて、気鋭の文筆家が幾原監督の他作品にもふれつつ、『輪るピングドラム』その可能性の中心を読み解きます。

劇場版『RE:cycle of the PENGUINDRUM』
そして十年の時を経て、今再び私たちに届けられようとしているのが、劇場版『RE:cycle of the PENGUINDRUM』である。
現在公開されている前編の冒頭では、『さらざんまい』同様、実写映像が用いられている。それはまさしく、この物語が『さらざんまい』以降――「もうひとつの世界」をめぐる想像力に囚われてやまなかったかつてからの離陸の意図を、象徴しているだろう。
テレビアニメシリーズでは、主人公らは自己犠牲を経て「運命」を乗り換え、人々の記憶から姿を消し、幼い子どもになっていた。前編の主人公は、まさしく記憶から消えたこの子どもたち、『さらざんまい』の言葉で言えば、つながりを失った子どもたちである。
もちろん後編が公開されていない現状では、それがどのように着地するかはわからない。
けれどもこうした部分のみで言っても、自分という箱からの逃れがたさを、幾原監督作品中最も強く描いた『輪るピングドラム』から十年の時を経て、劇場版が新たな場所に向かおうとしていることは明確である。

物語はどのように「もうひとつの世界」をめぐる想像力に決着をつけるだろう?

たとえば『輪るピングドラム』の主題歌のひとつは「少年よ我に帰れ」であった。
もちろん、『新世紀エヴァンゲリオン』というかつて一世を風靡したアニメーションの主題歌で「少年よ神話になれ」と歌われたことへの明らかな応答である。物語は『エヴァンゲリオン』に象徴される「もうひとつの世界」をめぐる想像力の可能性を、そしてそれと表裏一体でもある、地下鉄サリン事件に象徴されるその危険性を描いていたのだ。
であるとすれば、今再び『輪るピングドラム』に立ち返ることは何を意味するだろう。
あの物語では「ピングドラム」という謎めいた単語が提示され、主人公らはそれが何かもわからないまま解釈しながら犯罪にまで手を染める様子が描かれていた。謎めいた断片的な用語と増幅する解釈、その暴走とは、まるで現代の陰謀論的構図、たとえばQアノンが持っている構図にも近しいものである。
実際、幾原監督作品を取り巻くファンダムの特徴とは第一に「考察」であり、物語に描かれた抽象的で謎めいた様々な細部がどんな意味を持つのか、「考察」してやまない人々の姿である。
全てに意味を見出さずにはいられない人々、そして長らく支配的だった「もうひとつの世界」への想像力――幾原監督作品は明らかに、時代を蝕む問題と極めて近しい何かを共有しているのだ。
かつて『輪るピングドラム』は、革命がもはや現実的に実現可能とは思えなくなり、テロルに至るほかなくなった現代の閉塞感と併走していた。
そして今では、私たちは革命をすでに奪われているだけではなく、「もうひとつの世界」を夢見ることさえできなくなっている。歴史修正主義にせよ陰謀論にせよ、現代では「世界を変える」ことよりむしろ「この世界は間違っている」という直観に導かれ、ただ解釈の変更を、各自の考える「正しい解釈」を追い求めているのだ。
だからこそ今再び劇場版『RE:cycle of the PENGUINDRUM』が届けられることには意味がある。それは今を生きる私たち自身の問題、、、、、、、、、なのだ。

とはいえ後編が届けられなければ話は始まらない。
まずは物語を受け取らなければならない。
私はこれから、2011年の『輪るピングドラム』に立ち返り、そこで一体何が描かれていたのかを読み解いていく。家族の問題とは何か、どうしたら救われるのか、自己犠牲とは何か、自分自身であるとはどういうことか?
全ては極めて具体的、、、に、暗号解読よりは人間そのものの描写として、読み解かれなければならない。他ならないこの世界で、この現実で、続いていく人生を生きるためにこそ。