私たちの生存戦略

第一回 もうひとつの世界

日本アニメ界の鬼才・幾原邦彦。代表作『輪るピングドラム』10周年記念プロジェクトである、映画『RE:cycle of the PENGUINDRUM』前・後編の公開をうけて、気鋭の文筆家が幾原監督の他作品にもふれつつ、『輪るピングドラム』その可能性の中心を読み解きます。

この世界は間違っている。
あまりにも理不尽で、残酷で、暴力的に過ぎる。全ては正されなければならない——と、そんな風に思うことはままある。その上で、それでもなおこの世界で、この現実で、自分自身として生き延びる、、、、、、、、、、、、、ことはどうすれば可能になるだろう?


想像力の可能性と危険性:『輪るピングドラム』
2011年に放映された、幾原邦彦監督による全24話のテレビアニメシリーズ『輪るピングドラム』(略称ピンドラ)――それは「もうひとつの世界」をめぐる物語だった。
人は時に、ここではないどこかを夢見る。
何もかもが間違っているように思えることがある。あまりにも残酷で理不尽なことばかりが起こるこの現実は、正されるべきものに他ならないと。別の現実、別の世界、別の自分を求めてやまないことが、人にはあるのだ。
物語は愛されなかった記憶に、「家族」をめぐる呪いに囚われてやまない子どもたちを描いていた。愛は時に恐ろしい。親から子へ、あまりにも非対称な場における「愛」は、もしもそれが与えられなかった場合、文字通り子どもを殺しかねないものである。
愛されるべき存在として選ばれること/愛されず選ばれないこと――そんな恐るべき二分法、残酷な「ルール」に支配された世界をこの物語は描く。

だから物語は、「もうひとつの世界」をめぐる想像力について描かれていたのだ。
愛されなかった記憶に囚われてやまない子どもたちは、呪いのように思える自らの「運命」を変えることを願っていた。列車を乗り換えるように、運命を乗り換えることを。
と同時に、物語で描かれるのは、もうひとつの世界を夢見ることそのものの危険性でもあった。『輪るピングドラム』は現実のテロ事件――1995年のオウム真理教による地下鉄サリン事件——をあからさまに参照していた。つまり「この世界は間違っている」という信念に導かれ、世界の残酷さを拒絶し、あまり数多の犠牲を伴うテロリズムを実行してしまう、そんなテロルに至る想像力の危険性も、ひとつの主題にしていたのだ。
もうひとつの世界を夢見てやまないその切実さを余すところなく描きながら、夢見ることそのものの危険性とも対峙する――『輪るピングドラム』はそんな困難極まりない課題に果敢に挑む物語であった。

そして2022年4月29日、およそ十年の時を経て、『輪るピングドラム』は再び私たちのもとに届けられた。テレビシリーズの総集編と謳われながら、一度閉じた物語の続きでもある劇場版『RE:cycle of the PENGUINDRUM 前編』は、かつてとは異なる仕方で、再びあの困難な課題に取り組んでいるだろう。
実際、陰謀論の時代とさえ言われる現代にあって、かつて『輪るピングドラム』が対峙した課題はますます喫緊の問題になっているように思えるのだ。
個々が信じる「真実」が乱立し、暴走し、現実に様々なる影響力を持っているこの時代に、私たちは一体どのようにして「物語」を信じられるだろう。どうすればテロルでも陰謀論的思考でもない形で、もうひとつの世界を夢見ることができるだろう?