私たちの生存戦略

第三回 家族=呪いの輪

日本アニメ界の鬼才・幾原邦彦。代表作『輪るピングドラム』10周年記念プロジェクトである、映画『RE:cycle of the PENGUINDRUM』前・後編の公開をうけて、気鋭の文筆家が幾原監督の他作品にもふれつつ、『輪るピングドラム』その可能性の中心を読み解きます。

時籠ゆりと父の問題
あるいは、時籠ゆりもまた、植えつけられたトラウマを背負って生きる人物である。
彼女の父は芸術家である。美しいものしか愛せないと言う人物である。
そして彼は、ゆりを醜いのだと言っていた。美しくない子どもは誰にも愛されない、その資格がないんだ、醜いゆりはこのままでは誰にも愛されないのだと。
そして彼は「パパにお前を美しく改造させてくれ、パパにお前を愛させて欲しい、パパは美しいものしか愛せないんだ」と言うのだ(第十五話)。
父親が彼女に言う言葉、行われる「改造」はもちろん虐待である。
比喩的に彫刻として表現されるそれは、性暴力を連想させるものでもある。
ゆりの体には傷が増え、その表情は暗くなっていくものの、彼女に父親の「改造」を拒否することはできない。
というのも父親はゆりに、母親は醜く愚かで、父の芸術を理解できない人物であり、だからこそ「あんなことになってしまった」のだと語っていたのだから。
母に何があったのかは明かされていない。
ただ確実なのは、母親が既に家にはおらず、ゆりに残されているのは父親だけだということである。だから母に加えて父をも失う恐怖の中で、彼女は父の言葉をそのまま受け入れる他に出来ることなどなかった。
彼は文字通り、ゆりの逃げ道を奪ったのだ。
そして追い詰められたゆりを救ってくれた人物こそ、荻野目桃果という少女だった。
父に「お前は醜い」と言った瞬間、十字架が映り、教会の鐘が鳴り響いていたが、これはゆりにとって父が神にも等しい絶対者であることを示している。
そんなゆりに対して、神様が作ったこの世界に醜いものなんてない、みんな綺麗だ、ゆりはとっても綺麗だ、と言ってくれた人物が桃果である。だから桃果は、父親に代わるゆりの新しい神だったのだ。
なのに桃果はある事件によって亡くなってしまう。
桃果を失った事実を、ゆりは大人になった今も受け入れられない。一度は桃果によって呪いを解かれたはずなのに、「美しくないものは愛されない」というトラウマが、「桃果だけが私を美しいと言ってくれる」という形に変換され、新たな枷となる。
神のいなくなった世界で、ゆりはどう振る舞えばいいかわからない。
呪いから抜け出すことは容易ではない。たとえば桃果の妹である苹果を温泉旅行に連れ出し、彼女の同意を得ることなく性行為に及ぼうとした時、ゆりはある意味で、自分を苦しめた当の父親の行為を繰り返そうとしてしまったのではないか?
苹果の裸体にゆりが縛り付ける赤い紐は、かつての「彫刻」に縛られてやまないゆりの心情そのものだったのではないか。