ちくま文庫

ろくなもんじゃねえ!
『夢を食いつづけた男――おやじ徹誠一代記』解説

クレイジー・キャッツの植木等の父親は、昼は地獄・極楽を説き、夜は革命を説く破天荒な男だった。アナキズム研究の栗原康氏による、愉快痛快な解説!

 いま十二月末、忘年会シーズンだ。このかん、わたしは泥酔につぐ泥酔、そしてさらなる泥酔をくりかえしている。いつも意識はあるのだが、気づけば、便所に顔をつっこんで、ゲロゲロとはきまくっている。よっ、不健康。もう、これ以上飲んじゃいけない。でも飲みはじめたら、もう一杯、もう一杯とやめられない。ダメだ、もう一杯。ダメだ、でももう一杯。でもでもと、わかっちゃいるけど、やめられない。で、ふとした拍子に、この一杯で死んでもいいと、そこに永遠でもかんじているかのような、そんな一瞬を手にしているのだ。ウマイ、ウマスギル! いいもわるいもありゃしない。健康、不健康、どうでもいいね。ダメの底をぬいちまって、狂ったように酒をくらう。そしてまたゲロをはくのだ。スースースダラタッタ、スラスラスイスイスイ。スースースダラタッタ、スラスラスイスイスイ。わかっちゃいるけど、やめられない。ごくろうさん!

 さて、本書は昭和の名優、植木等がお父さんのことをかいた伝記である。お父さん、徹之助は一八九五年、三重県伊勢市にうまれた。十四歳のとき、東京にでて、親戚がやっていた御木本真珠店付属工場ではたらきはじめた。もちろん見習いからだが、指輪や装身具をつくる職人になったのだ。でも、そこで十年くらいはたらいているうちに、ロシア革命があり、米騒動がありで、日本でもカネもちの言うことばかりきいてられねえと、ストライキの波がおこりはじめる。徹之助の工場でも、ストライキがおこってこれに参加。社会主義にひかれて、いろんな勉強会にでる。徹之助自身は知人の影響で、キリスト教をまなび、そこから人間の平等をと考えるようになっていたのだが、なんでも勉強会では、大杉栄や伊藤野枝にも会ったんだそうだ。うらやましい。

 そうこうしているうちに、一九二三年九月、関東大震災。このとき、徹之助は社長から、おまえ、商品がぶじかみてこいといわれてブチキレてしまう。オレは命のほうがだいじですからと。それ以来、仕事はなくなって、奥さんの実家、三重県の西光寺をたよった。真宗大谷派のお寺だ。ここで親鸞のおしえをまなんだら、そのラジカルな平等主義に感動してしまって、すげえよ、これ社会主義じゃんとおもう。で、坊主になって、昼はお経をとなえ、夜は近所の人たちに社会主義を説法してまわるようになった。仏教社会主義者だ。なむあみだぶつ、アーメン!

 一九三五年には、三重県伊勢市朝熊町の三宝寺にうつる。ここでとりくんだのが部落解放運動だ。この地域にはあきらかに差別があって、たとえば被差別部落の人たちには、区所有の山林をつかうことがみとめられていなかった。これはでかい。だって農業がうまくいかなくたって、山さえあればなんとか食えたりするのだから。もちろん、みんなシレっとつかっていたのだが、昭和にはいって、行政の管理統制がきびしくなる。徹之助はこりゃおかしいぞといって、村人たちをまとめあげ、でかい抗議運動をやった。でも、これでタイホ。その後も、タイホにつぐタイホで、さいごは治安維持法でパクられた。運動は壊滅。ながらく家にももどれない。たまに出所しても、寺にやってきた若者たちに、うおお、戦争は集団殺人じゃあ! ってアジって、またタイホ。てっちゃん、カッコイイ!

 そのかわり、息子の等はたいへんだ。アカといわれてイジメにあう。それならいっそと東京のお寺に修行にだされ、勉学にはげんで東洋大学に進学した。やがて敗戦をむかえ、芸能界にうってでる。さいしょ、芸能界入りに反対していた徹之助だったが、おもしろいのは、等に「スーダラ節」のはなしがきたときのことだ。このうたは、ヘイヘイ、酒だ、バクチだ、女だよって歌詞なので、等は、こんなフシダラなことをうたっていいのかとまよい、父、徹之助に相談をした。すると、徹之助はこういったという。すばらしい、これは親鸞のおしえにつうじるものがあると。うん? どこがだよってたずねると、「わかっちゃいるけど、やめられない」のとこだという。これで等は心をきめて、「スーダラ節」をうたった。トップスター、植木等の誕生だ。

 とまあ、そんな本なのだが、さいごにちょっと考えておきたいのは、じゃあ「わかっちゃいるけど、やめられない」ってのが、どう親鸞とつながっていたのかってことだ。これ、わたしは悪人正機ってことなんだとおもう。さいしょにいった酒のはなしとおなじで、それはダメだ、悪だっていわれていることにひらきなおって、それこそ悪の底の底をぬいちまって、もうなにが善悪の垣根かわからなくなるまでいってしまえということだ。おまえらは被差別部落だから山はつかうな、それは悪いことなんだといわれていても、でも山はつかいたい、というか、それオレたちの生活の一部だからといってたたかって、つかうな、でもつかいたい、つかうな、でもつかいたい、つかうな、でも、ああっ、つかっちまった、こりゃサイコーだぜ、ヤメラレナイ、トマラナイ、ヤメラレナイ、トマラナイ。アァッ、アァッと、そうやりあっているうちに、ふとしたはずみでポーンッと善悪の垣根がはじけとんでしまう。もしかしたら、ちょくちょく闇にまぎれて、山を勝手につかうようになるかもしれないし、パクられてもおかまいなしの行動にうってでるかもしれない。法も秩序も関係ないね。そもそも、ひとに垣根をもうけるこの社会がクソなんだと。

 たぶん徹之助は、村のひとたちとはなしながら、そういう底をぬいたひとの苦しみ、悲しみみたいなものにふれていたんじゃないかとおもう。だからこそ、徹之助もまたヤラれてもヤラれても、戦争は集団殺人じゃあっていって、アジるようになったのだ。もうこの世の善悪なんてふりきっちまって、差別も区別も垣根もない。徹頭徹尾、平等主義でいくぞと。あばよ、アーメン、なむあみだぶつ。等、等、等、されど等だ。スースースダラタッタ、スラスラスイスイスイ。スースースダラタッタ、スラスラスイスイスイ。酒!  酒! バクチ! バクチ! 女! 女! わかっちゃいるけど、やめられない。ろくなもんじゃねえ!

 

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