■ワンダーは捏造できるか――葛原妙子の秘法
川上 でも極端なことを言うと、なんで天才の仕事を凡人がわかるのかが不思議なんです。天才の天才性が一〇〇パーセント発揮された作品は理解できず/されず、ちょっと薄まったのはわかると言うと、わたしたちが見落としているものってむちゃくちゃある気がして不安になります(笑)。
穂村 昔の歌でいまの僕たちが見落としているものはたくさんあるだろうし、逆にいま我々が最高だと思っている歌も未来にはそういう時代の作品として、なんとも思われないかもしれない。
川上 左川ちかの詩はいつ読んでもそのわからなさを突きつけられる気がするんです。文字としては読めるんだけど、意味が読めるときと読めないときがある。たとえばビジュアル系バンドとかの刹那的にして終末思想的な歌詞と見分けがつかないときがあって、独特の不安に陥るときがある(笑)。ただ、読めないにせよ、彼女がこのように幻視しているということは確実に伝わってきて、そして、彼女は自分の幻視を他のひとが見えないなんていっさい想像していないように感じます。
穂村 自分に幽霊が見えるんだから、みんな見えるんだろうと。
川上 そのときにそれは幽霊ですらないんです。ありふれた言葉で言うと「狂気」ということになるんですが、それと正常さのぎりぎりのラインを保っているひとという印象があって、いつもちゃんと読めているのか不安になります。
穂村 左川ちかは二十四歳という若さで亡くなっているんですよね。だから若いときの作品しかないというのと、「花」という詩を見ると基本的にはモダニズムの語彙である一方で、「私の後から目かくしをしてゐるのは誰か?」とか「私は最初に見る」みたいな「見ること」への意識がある。石垣りんは「みえない」と言うわけだけど、誰よりも摂理が見えないことに敏感なひとこそが幻視を見るわけですね。葛原の「卵のひみつ、といへる書(ふみ)抱きねむりたる十二の少女にふるるなかれよ」という短歌は、最初なんでこんなこと考えるのかわからなかったんだけど、散文的にパラフレーズすると、つまり初潮年齢のことを言っていて、「卵のひみつ」は「生殖のひみつ」であると。少女は十二歳のときに、摂理として意志に関係なく「生殖のひみつ」を押しつけられる。しかも、自分だけで生殖することもできないというのもひどい話で、それらへの痛みの感覚から「ふるるなかれよ」という言葉になる。異性はむろんのこと、たとえ慰めであっても今の彼女に触れてはならない、彼女はたったひとりで「卵のひみつ」を抱く聖なる存在なのだからそのように遇せよと言うわけです。明治生まれという時代の中で、こう言い切る強さがすごいですよね。
川上 葛原妙子は穂村さんが憧れの歌人だと言うのを聞いて読み始めて、すごく好きになったんですけど、「淡黄のめうがの花をひぐれ摘むねがはくは神の指にありたき」とか「晝(ひる)しづかケーキの上の粉ざたう見えざるほどに吹かれつつをり」という短歌は、散文で言えば多和田葉子さんの『ゴットハルト鉄道』のようなワンダーの出方、つまりある女性が鉄道に乗ってトンネルをくぐるとき、そのトンネルの中で外界にあるものがすべて自分の身体の部分に置き換えられることを発見していくというのと、逆に初期のわたしの場合のように、自分の皮膚に街を見るように内界に外界を発見していくという、その両方を葛原は短い短歌の中でやっているんです。
穂村 そのパターンの歌を多く採られてますよね。たとえば「口中に一粒の葡萄を潰したりすなはちわが目ふと暗きかも」。これは葡萄を口中で潰したときに思わず自分の目を潰してしまったように思うというもの、それから「夕雲に燃え移りたるわがマッチすなはち遠き街炎上す」、これも自分がマッチを擦っただけで夕雲に火が燃え移って街が燃え上がる、自分と世界がクラインの壺みたいにつながっている感覚です。
川上 同時に外界と内界をつなげて動かしてしまう、本当にすごい視力だと思います。ケーキの歌にしても、ケーキをじーっとじーっと見ていると、粉砂糖が砂嵐のように見えるってことですよね。
穂村 遠くに見える星が、ずっとズームしていくとその表面の凸凹とか砂嵐が見えるみたいな。もちろん見えるわけないんだけど(笑)。
川上 そこなんです。見えませんよね(笑)。じゃあなんで葛原はこれが書けたんですか。
穂村 ひとつ言えるのは、これは葛原の歌の中でも絶好調時のものってことですね。さすがにここまで見えているときはあまりない(笑)。人間の知覚の外にも摂理の力が働いていることに気づいている。無限時間の果てにケーキは消滅する。
川上 なるほど(笑)。つまり、ここにはわたしが皮膚の上に街を見るような気持ちとは違う原理が働いている気がするんです。というのは、わたしの皮膚をじっと見てると街に見えてくるというのは、ワンダーの捏造であることも可能なんです。
穂村 そう見えたらいいなってことですよね。僕もそればっかりだから、よくわかる(笑)。
川上 はい。本当にそう見えるときもあるんですが、技術として、ワンダーが捏造できてしまうことが問題なんです。もちろん、ある衝動や感覚を言葉に置き換える時点で、ひとつめの捏造が存在してしまうわけなんですけれど。
穂村 それは映画でCGを使うかどうかって話ですよね。葛原はCGもワイヤーアクションもない時代に、生身であの蹴りを出したんだという驚きがあって、いまだと、それCGでやりますよねとなるから、表現としてはひ弱になる。
川上 凡人がこの歌を読んだときに「粉砂糖見えんのかよ、すげえ、やばい」となるのはいいとして、じゃあ自分で書いてみようとしたときに、このポエジーの構造を利用することができるわけです。同一の書き手の中でも起こることで、自己模倣と呼ばれる批判もそのひとつでしょう。そのときに読者は再利用されているってわかるものですか?
穂村 この歌は傑作なので、あまり指摘できるポイントはないんですけど、他ではいろいろ指摘できるポイントはある。それを考えると、葛原といえども万能ではないんですね。というより、技が一個しかないから天才と言えるのかもしれなくて、必ず一本背負いで来るとわかっててもよけられなければ無敵なわけだから。
川上 葛原はひとつの技がとびぬけて強いと。
穂村 たとえば「風媒のたまものとしてマリヤは蛹(さなぎ)のごとき嬰児を抱(いだ)きぬ」という歌は、おくるみにくるまれたイエスを蛹に見立てているんだけど、これは世間の聖なるものを認めないという意志ですよね。「風媒」という言い方でマリアの処女懐胎も疑うし、イエスも蛹にしちゃうし、言ってみれば神に対峙して「その蛹のような赤子は何ですか?」と訊くわけです。素晴らしいんだけど、彼女はすべてこのパターンで、一般に素晴らしいとされているものを全部贋物ではないかと疑う、これが彼女の一本背負いなんです。
他の例を挙げると「天体は新墓(にいはか)のごとく輝くを星とし言へり月とし言へり」も、星や月もいいものと思われているけど、それは新しい墓のように輝いているというアイロニカルな視線ですよね。「白鳥は水上の唖者わがかつて白鳥の声を聴きしことなし」は、白鳥というよきものを声が出せない者と捉えている。ただ葛原は逆に白鳥や星や月や神を誰よりも信じたいと思っているんですね。だからこそ、執拗にそれは本物か? と問うてしまう。みんながよきものだと納得しても、彼女だけは納得できなくて、ひとりで問い続ける存在になる。名作とされる油絵を見るときに、みんなは「ああ、あの名作」と思って見るのをやめても、葛原はどこまでも凝視して、一カ所の毛羽立ちに対して「ここに蛾が閉じ込められてる」と言ってしまう。たしかに油絵の毛羽立ちの盛り上がり方は蛾が閉じ込められてる風だけど、どうしてもそう言わずにおれないというのが幻視のシステムですよね。われわれもそれに感心してしまって、「幻視の女王」とか「現代の魔女」という言い方で主に男性の歌人が持ち上げたんですね。
川上 そこには葛原が女性であることも関わっていますよね。そのときに葛原のワンダーと他の男性歌人によるワンダーは、根本的に異質なものなんでしょうか。
穂村 やっぱりまず見えないものが見えるということへの憧れがあり、そして葛原に見えていたものは女性性への違和を中心にしたものだったことは大きくて、それを男性である中井英夫や塚本邦雄たちは嫉妬とも違うけど、褒めるにせよ「幻視」や「魔女」という語彙を持ってこざるを得なかったのはあると思う。でも、さっきの理屈で言うと、実は葛原こそが誰よりも人間なんですけど、しかし、葛原を人間だと言ってしまうと、負けたことになるので、特別枠になってしまったんですね。
川上 評価を下した多くの男性たちは、このワンダーは「女性ならでは」のもので、自分たちとは関係ないとしたわけですね。プライドを傷つけたくないから(笑)。じゃあ、この種のワンダーを書いた男性歌人はいないんでしょうか。
穂村 直接の答えにはならないんだけど、歴史的に巫女とか斎宮みたいな存在は女性ですよね。そういう論理や雰囲気の延長線上で捉えられた面もあると思います。でも、いまは僕も含めて多くのひとが、それは問い直されるべきだと思い始めている。男が人間で、その人間と神の間に葛原みたいな巫女がいるのではなくて、たった一人で神の前に立った葛原こそを人間の中心に置かなければいけないと。彼女がたまたま女性だったから女性性を軸とした作品を書いたという理解のほうが正しいんじゃないかな。
(後編に続く)