■詩は野菜炒めでなければならない
穂村 男性の幻視者という話で言ったら、石原吉郎なんかはどうですか?
川上 石原吉郎は詩を読む前に、シベリア抑留体験を書いたエッセイを読んでいて、そこで書かれていることの衝撃が強すぎて、彼の詩をちゃんと詩として読めていない気が今もするんです。ただ、石原吉郎がそれだけの体験を経てきて、誰かに「詩にとって一番大事なものは何ですか?」と訊かれたときに「リズム」と答えたというエピソードは壮絶です。
穂村 あれはいい話ですね。けっして内容とかではないんだよね。
川上 石原吉郎に「リズム」と言われたら、もうリズム以外ないでしょう。
穂村 ただ、あれも散文的に読もうとするべきだとは思います。詩の本質って不可逆性だと僕は思っていて、どういうことかと言うと、野菜サラダのような詩は駄目で、野菜炒めやたくあんみたいじゃないといけないと。つまり野菜サラダはどれだけ細かく切って混ぜても野菜自体は変わっていない。元のレタスやトマトに復元できちゃうけれども、野菜炒めは加熱したときに不可逆的な変化が起こるので、もう元には戻せない。たくあんも発酵しているから元の大根には戻らない。本当の表現って野菜炒めやたくあんみたいなもので、サラダは違うと思うんです。詩を見たときに、これはサラダなのか野菜炒めやたくあんなのかという検証はできるし必要ですよね。つまりどこまで散文に戻せるかということで、石原吉郎だと、「葬式列車」の最初のほうに「ただ いつも右側は真昼で/左側は真夜中のふしぎな国を/汽車ははしりつづけている」というフレーズがあって、読んだときにすごいイメージだと思ったんだけど、よく考えるとソ連は広いので単に時差の話なんじゃないかという気がしたんです。どんなに衝撃的な表現でも、戻すことが可能なものはあるんですよね。西脇順三郎にしても、誰かに「タンポポの根の笑い」という表現はどういう意味なんですかと訊かれて、「タンポポの根は苦いだろう。苦笑いのことだよ」と答えたって話があって、なんだよダジャレなのかよと(笑)。
川上 (笑)。それはサラダ的表現なんですね。
昨年9月に刊行されるやいなや大反響を呼び起こした『早稲田文学増刊女性号』。それを承けて、11月26日に早稲田大学戸山キャンパスにて、4つのパネル、計8時間近い長丁場で開催された早稲田文学増刊女性号刊行記念シンポジウムより、川上未映子×穂村弘によるパネル1「詩と幻視――ワンダーは捏造可能か」の後編をお送りします。詩にとって重要なリズム、不可逆性の話から男性号の可能性まで、ワンダー溢れるトークの応酬!