先日のこと。本の話をしていて『三体』という書名を口にしたところ、「あ、そういう発音ですか」と返された。びっくりして、言葉が止まってしまった。ショックを受けたのだ。話の内容について、何を云われたとしても、そうはならなかっただろう。発音への指摘には、メタレベルの衝撃があった。考えてみると、『三体』という文字では何度も見ていたが、誰かが口にしているのを聞いたことはなかった。勝手にこうと思い込んでいたんだけど、違ったのだろうか。
昔の映画などを見ていると、登場人物の台詞に、あれっと思うことがある。微妙に今と発音が違うのだ。主に外来語のカタカナ言葉などで感じることが多い。なんというか、昔のほうがイントネーションを律儀に上げ下げしている。全般に今はフラット化しているようだ。でも、過去にタイムスリップしたら、我々の言葉のほうが変に聞こえるのだ。
自分の発音がみんなと違うだけで、恥ずかしく感じるのは何故だろう。京都に行くたびに、「烏丸御池」のイントネーションに迷う。脳内の候補は二つあって、どっちかが正解なんだけど、どっちだっけ。
小学生の時、横浜から名古屋に引っ越したことがある。転校初日に何気なく「めがね」と云ったら、教室中に爆笑されてしまった。アクセントの位置が違ったのだ。こっちのほうが標準語なのに、と不満に思ったけど何も云えなかった。だって、明日から自分はここで生きていかなくてはならないのだ。名古屋弁の初心者として。
初心者といえば、以前、こんな短歌を紹介したことがある。
小1に上がった甥がオレというオにアクセントは初心者マーク 小野寺清子
もうボクは幼稚園じゃないから「オレ」でいこう、と思ったのか。マッチョ界の初心者だ。「オにアクセント」という表現から、実際に彼がどう云ったのか、思い浮かべることができる。
では、こちらはどうだろう。
トンカチのイントネーションはトンカチと思い込んでた本当はトンカチ エース古賀
「トンカチのイントネーション」には具体的な説明がなく、読者の想像に任されている。でも、なんとなく、こうかなとわかるところが面白い。発音に「本当」はないから、「トンカチ」と「トンカチ」の勢力はいずれ逆転するかもしれない。
戦争と口にしたとき発音が変と言われた戦争が変 渡辺崇晴
この歌はまたちょっと印象が違う。「トンカチ」に較べて「戦争」の意味は重い。その言葉の内実に触れることなく、敢えて発音のみを描くことで、「戦争が変」という結句にメタレベルの批評性が生じているようだ。
そういえば昔、森茉莉がエッセイの中で、自分の「カッコイイ」と若者たちの「カッコイイ」は、どこか響きが違っている、という話を書いていた。何度口にしても若者のようには云えない。と思って、よく聞いてみると、彼らの「カッコイイ」は「カックイイ」だった、と。さすがは森茉莉と思った。