ちくま文庫

読むほどに沁みる、吉行エッセイ
ちくま文庫『吉行淳之介ベスト・エッセイ』(荻原魚雷編)解説

『多摩川飲み下り』『酒呑まれ』などの著者・大竹聡さんが、吉行エッセイのもつ「大人の魅力」について解説してくださいました!

 吉行淳之介は憧れの作家だ。博識にして、才気に溢れ、世俗に通じ、書くものおしなべて粋であり、見目麗しく、一度ラジオで聴いたことがあるけれど、声がまた太くてマイルド、ゆったりとした話しぶりが洒落ていた。
 万事につけ真逆の筆者からすれば嫌味な存在になっていて不思議ではない。けれど、ときどき読みたくなる。声を聴きたい、といったほうが正確かもしれない。そんなときはいつも、『吉行淳之介エッセイ・コレクション』全四巻のいずれかを手に取り、開いたそのページから読んできた。今回、前回のシリーズからの抜粋に新たな作品も加えて再編集されたことはファンとしてなにより嬉しい。
 吉行淳之介は、作家としての身のこなし、酒場での嗜み、広くて深い交友、男女の難しいところ、おもしろいところ、題材を選ばずスパッと切る。どんなくせ球、つり球、変化球もバットの芯で見事にとらえてクリーンヒットにしてしまう。
 筆者は吉行淳之介の読者になってもう三〇年以上になるが、最初は、男女の何事も知らないのに「砂の上の植物群」や「夕暮まで」を読んで痺れていた。この作家の描く世界に憧れていただけだと思うけれど、今、こちらも五〇代半ばの読者となってみると、むしろエッセイに心惹かれるような塩梅なのだ。
 本書収録の「私の文章修業」の、こんな箇所に惹かれる。
〈年齢の問題も、そこに加わってくる。五十歳を過ぎたころから、
「あ、いや、やめて」
 と、何某子は言った。
 というような文章を書くと、なにやら阿呆らしい気分が起りはじめた。〉
 率直というか、正直というか、それでいて自らの置かれた状況を突き放しているような態度がおかしく、笑いがこみあげた。
「紳士はロクロ首たるべし」では、「紳士とは人間らしい人間である」とする一方で、自分は紳士ではないし、人間らしい人間でもないから、長く心に喰いこんでいることを調べることで、紳士への道を考える。
 そこに娼家におけるふたつのエピソードが描かれる。そのひとつ。筆者自身が昼から妓を訪ねたとき、後から別の客がやってきた。先客がいると妓から聞かされた客は、〈よろしく言ってくれ〉と告げて去るのだ。
 お互い、昼間っからよくやるな、という、穏やかな気分の交換があり、それを仲介する妓にも、肩の力が抜けた、いっそ、清々しいような風情が漂う。
 そういう些細なことに、人間らしい人間を見る。この作品は一九六二年刊行の単行本に収録されているので、もう半世紀以上前のものなのだが、どこかほのぼのとして、心に残る。紳士になるための何カ条といったお為ごかしの正反対。筆者のような田舎の野暮天でも、この年齢になってやっと気持ちが汲める、大人の挿話だと思う。
 カネについての考察もおもしろい。百円札を眺めて、うどん四杯分に見えるか、カレーライス一杯分に見えるか、それともナイトクラブのボーイへのチップに見えるか。そのときの見え方によって、それ以上にもそれ以下にも使わなければ問題なし、ということなのだ。が、ここにも、著者自身の抜群のエピソードが添えられる。大事なオチだから、ここに書くことを控えるが、最後に自分のネタで落とす、その手法がさりげなく、鮮やかだ。
 今回の再読で、もっともおもしろかったのは、「雑踏の中で」というごく短い作品。
 街を好み、雑踏を愛する作家は、ひとりで酒を飲みに出る。ビアホールで少し、場末の酒場でもう少し。酔えば人恋しくなって誰かに会えそうな店へ行き、おしゃべりをして、しばらくするとひとりに戻りたいが、ずるずるとハシゴをし、最後の店を出たら、ようやくひとり、街の灯りを眺めている。それだけの小品が妙に沁みた。
 本書の第四章は「人物」をテーマに編まれている。これまでのシリーズに収録されておらず、筆者も初めて読むものがいくつもあったが、「色川武大追悼」という一文には心を揺さぶられた。ふたりの出会いのときから書き起こし、色川の麻雀の力量に触れ、作家としての業績に触れ、奇病に苦しむ氏の相貌を浮かび上がらせ、最後の訪問の様子を描く。
 色川武大がそのときつぶやくようにして言ったひと言は、読み終えてしばらくの間、頭の中に何度も響くようだった。
 筆者はこの拙い文章をゲラ刷りを読んで書いているのだが、読み終えたばかりだというのに、もう、完成が待ち遠しい。編者の荻原魚雷さんにとって、作品の取捨は愉楽でもあり、たいへんな労苦だったことでしょう。貴重な一冊をありがとう。刊行祝いに一杯やりながら、吉行話をたくさん聞かせていただきたい。
 そんなことを、今、思っています。