早稲田文学女性号刊行記念シンポジウム

詩と幻視――ワンダーは捏造可能か【後編】
早稲田文学増刊女性号刊行記念シンポジウム・パネル1

昨年9月に刊行されるやいなや大反響を呼び起こした『早稲田文学増刊女性号』。それを承けて、11月26日に早稲田大学戸山キャンパスにて、4つのパネル、計8時間近い長丁場で開催された早稲田文学増刊女性号刊行記念シンポジウムより、川上未映子×穂村弘によるパネル1「詩と幻視――ワンダーは捏造可能か」の後編をお送りします。詩にとって重要なリズム、不可逆性の話から男性号の可能性まで、ワンダー溢れるトークの応酬!

■独創的なリズムやリフレインに魅せられる
川上 今回、特に穂村さんに訊いてみたかったのは、安立スハルの評価です。目次が固まって、穂村さんや東直子さんに「安立スハルってどうですか?」と訊いたときに、歌を作るひとの間でもそんなにメジャーな歌人じゃないから、よくここに入れたよねと言われて嬉しかったんですけど、あらためてお読みになっていかがでしたか。
穂村 肝が据わっていると思いましたね。
川上 「馬鹿げたる考へがぐんぐん大きくなりキャベツなどが大きくなりゆくに似る」とか「地を這える春の風ぱつと舞ひあがり舞ひあがりゆけりわれを越えつつ」とか、同じ言葉のリフレインが特徴的なんですけど、これは短歌の作法としてどうなんですか?
穂村 リフレインはもちろんレトリックのひとつですけど、たとえば「キャベツ」の歌とかは、五七五で切っていくと文字が余り気味になる。その余る感じが、おさえきれないほど大きくなるイメージに繋がっていますよね。短歌の場合は、定型を意識するとよりはみだした場合の印象は強まるし、もともと字数が短いのはわかっているわけで、それなのに繰り返すと「足りなくならない?」と思いますよね。
川上 それでも繰り返さずにいられない緊張感が出る。「こぼれくる春の落葉を寄せて燃す匿名氏より来し葉書燃す」とかも大好きで、いまだったら匿名のリプをブロックってことですよね(笑)。「金にては幸福は齎(もたら)されぬといふならばその金をここに差し出し給へ」は「同情するなら金をくれ」のハシリとも言えるし、すごく現代的で面白いんです。「おきゃん」っていうのかな。
穂村 素敵なことを言おうとしない感じがいい。
川上 他方で、いちばん最後の「あたらしい私を見むと出て歩くこの世は自分を見に来たところ」は直球で、早坂類さんなどにも通じるせつなさがあります。
 あと、今橋愛さんはどうですか。山田航さんが『短歌』の時評で女性号を取り上げてくださったときに、今橋愛の短歌がすごいことになっていると書いてくれて嬉しかったんですけど、作品中に「40歳」って言葉がでてくるんですけど、最初にデータでいただいたときに「40歳」がありえない大きさのフォントで表示されて、あと改行とかも意味不明的にすごいことになってて、恐れるものは何もない的な熱量を感じて感激しました。年齢と表現の関係の紋切り型を無効にするというか、形式的にも、短歌の世界の次のステージが来たのかなという気がしたんです。
穂村 これはすごかったです。変な言い方だけど、従来の知性と言われてきた枠組とはまったく違う、新知性的とも言うようなモードで書かれている。「かわいいといわれて/うれしいときと/かなしいときがあるんだ」と分かち書きで言われたあとに、一行あけて突然「わかる?」と言われて、すごく詰め寄られた感があるんですよね。
川上 エッセイ的な散文や引用がばんばん入って自由なんですけど、これが短歌であるという自覚をもってやられたときに、短歌側のリアクションはどうなるんですか。
穂村 いま短歌に限らず、すべての作品的なものがそうだと思うんだけど、全部コンテンツになってしまうという現実があって、そういう現実の枠組そのものを変革しようという表現意欲は弱くなっている気がします。僕もその時代のひとではないのでわからないけれども、本当の社会革命を信じていた時代があって、それをほぼ無理だなとみんな感じ始めたあとも表現革命の意志は残っていたと思うんです。寺山修司とか。だけど、いまの若いひとを見ていると、社会システムが変わることはないという体感が支配的で、そうなるとその中でのジャッジとなって、すべてがコンテンツとしての強度を競い合うという事態になりますよね。それは僕としても避けたい状況なんですけど、そうではない表現を志向したつもりでも、そこがコンテンツとしていいって評価されたりしてなかなか逃れがたい。でも、この今橋さんの作品には、そういう閉塞から抜け出る感じがありました。女性号の他の書き手にもそういう感触は覚えましたね。
川上 あと今日触れたかったのは中島悦子さんで「栗」という詩が大好きなんですけど、彼女にしか書けない言葉の脱臼とリズムがある。女性号に収録した「被流の演技」は、文体はわかりやすいんですけど、最初から最後まで「死の向こう側」としか言いようのないものが横溢していて、緊張を強いられる。左川ちかや中島さんを自分はわかってないのかもしれないと思いながらも惹きつけられるのは、言葉の選択をふくめたリズムの力が大きいと思うんですね。でもふつうこの言葉の感触、このリズムがすごいということは共有できないはずなんです。穂村さんがしてくれたみたいに、ある短歌を「このレモンの意味は」とか「蛹である意味は」と散文化して説明し共有することは可能だと思うんです。でもリフレインやリズムはそのように相対化して共有できない。感じるしかない。そういう意味でどこまでも自分の感覚の内にあって、しかしそれは他者が発したものでもあり、そうやってリズムが伝わることが不思議なんですね。だからこそリズムは石原吉郎が言うように詩の大動脈なんだろうと。

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