ちくま学芸文庫

「数感覚」という能力
トビアス・ダンツィク『数は科学の言葉』第1章立ち読み

6月刊行のちくま学芸文庫、トビアス・ダンツィク著(水谷淳訳)『数は科学の言葉』から、第1章「指紋」の冒頭を公開します。

ローマの1 年は10 回の月の満ち欠けからなっていた.
当時この数は高く重んじられていた.
それはきっと,人がいつも指で数を数えるからだろう.
あるいは,女性が10 か月で出産するからかもしれない.
あるいは,数は10 まで大きくなると
再び1 から周期を繰り返すからかもしれない.
――オウィディウス,『祭暦』,第3節

人間は成長の初期段階からある能力を持っているが,それを指す良い言葉がないので,私はそれを“数感覚”と呼ぶことにする.この能力によって人は,ある小集合から対象が取り除かれたり,あるいはそれに付け足されたりしたときに,その集合に何かが変化したことを,直接的な知識がなくても認識することができる.

数感覚と数える行為とを混同してはならない.数を数える行為はおそらくもっとずっと成長してから生まれるもので,お分かりのとおり,それにはかなり複雑な精神活動が関係している.数を数える行為は,知られている限り人間だけが持つ特徴だが,一部の動物も我々に近い原始的な数感覚を持っているらしい.少なくとも,動物行動の観察に長けた人はそのように考えており,数多くの証拠がその説を支持している.

たとえば,多くの鳥がそのような数感覚を持っている.巣に卵が4個あると,その中から1個を取り除いても問題はないが,2個持ち去られると鳥はたいていその巣を放棄してしまう.鳥はある未知の方法によって2 と3 を区別できるのだ.しかしこの能力は鳥に限ったものではない.知られている中でもっとも印象的な例は,\単生スズメバチ_と呼ばれる昆虫である.母バチは巣室ごとに1個ずつ卵を産み,卵が孵ると生きた毛虫を与える.餌の数は種ごとに驚くほど一定で,巣室あたり5 匹の毛虫を与える種もいれば,12匹,あるいは24匹もの毛虫を与える種もいる.しかしもっとも驚くべきは,メスよりもオスのほうがはるかに小さいトックリバチ属のケースだ.母バチは何らかの謎めいた方法で,卵からオスメスどちらが生まれるかを判断し,それに応じて餌の量を変える.餌の種類や大きさは変えないが,卵がオスなら餌を5匹与え,メスなら10匹与えるのだ.

ハチの行動に見られるこの規則性と,この行動がハチの生活の基本的機能と結びついているという事実を考え合わせると,この最後の例よりもさらに説得力が高いのが次の例である.以下に紹介する鳥の行動は,意識と無意識の境界線上に位置していると思われる.

ある名士が,屋敷の望楼に巣をかけた1羽のカラスを撃ち落とすことにした.そこで何度もカラスを驚かそうとしたが,うまくいかなかった.彼が近づくと,カラスは巣から離れる.カラスは遠くの木で警戒して待ち,彼が塔から出ると巣に戻る.ある日,名士は策略を思いついた.2人の人間が塔に入り,1人は中に残ってもう1人は外へ出ていったのだ.しかしカラスはだまされなかった.中に残った人が外に出るまで,巣には近寄らなかったのだ.その後何日も,同じことを2人,3人,4人で繰り返し試してみたが,それでもうまくいかなかった.最後には5人の人間が送り込まれた.以前と同じく全員が塔に入り,1人は残って4人は外へ出ていった.するとカラスは数が分からなくなった.4と5の区別ができず,すぐに巣へ戻ってきたのだ.

このような証拠に対しては,2通りの反論を示すことができる.第一の反論は,このような数感覚を持っている種はきわめて少ないし,哺乳類の中ではそのような能力は見つかっておらず,サルでさえ数感覚は持っていないらしいというものである.第二の反論は,知られているどんな例でも動物の数感覚は対象範囲が限られているので,無視できるというものだ.

第一の指摘は正しい.何らかの形の数の認識能力が,一部の昆虫と鳥,そして人間に限られているらしいというのは,確かに驚くべき事実である.イヌやウマなど飼育動物の観察や実験では,どんな数感覚も見つかっていない.

第二の反論にはほとんど価値がない.なぜなら,人間の数感覚の範囲もまたきわめて限られているからだ.文明人が数を認識するときには必ず,自分の直接的な数感覚を補うために,対称的なパターンを読み取るとか,頭の中でグループ分けしたり一個一個数えたりするといった技巧を,意識的にせよ無意識にせよ利用する.とりわけ“数える”という行為は人間の精神構造と不可分であるため,人間の数感覚を心理学的に検証しようとするとさまざまな困難が付きまとう.それでもある程度は進展している.細心の注意を払っておこなわれた実験によって,平均的な文明人の持つ直接の\視覚的_数感覚が4より大きい数に対して通用することはほとんどなく,触覚的な数感覚の通用範囲はさらに限られているという結論が導かれている.

未開の人々に関する人類学的研究によって,この結論はかなりの程度裏付けられている.そのような研究によって,“指で数を数える段階に達していない”未開の人々は,数に対する認識をほとんど持っていないことが明らかとなった.そのような例は,オーストラリア,南洋諸島,南アメリカ,アフリカの数多くの種族に当てはまる.オーストラリアの未開の地を大規模に調査したカーは,4を識別できる原住民はほとんどいないし,原始の生活を送るオーストラリア人で7を理解できるものは一人もいないと考えている.南アフリカに住むサン族(ブッシュマン)は,“1”,“2”,“たくさん”以外の数詞を持っていないし,これらの単語も意味が曖昧で,彼らがそれに明確な意味を結びつけているかどうかは疑わしい.

事実上すべてのヨーロッパの言語に,そのような古代の能力の限界が痕跡として残っている.そのため,我々の遠い祖先がもっと高い能力を持っていたと信じられる根拠はないし,逆にそうでなかったと考えられる根拠は数多くある.英語の“thrice”という単語はラテン語の“ter”と同様に,“3回”と“たくさん”という二つの意味を持っている.ラテン語の“tres”(3)と“trans”(……以上に)のあいだにはおそらく関係性があるし,同じことはフランス語の“très”(とても)と“trois”(3)に関しても言える.

指を使った数の数え方

数の起源は,長い先史時代の不透明なベールで覆い隠されている.はたして数の概念は経験から生まれたのか,それとも原始の心にすでに潜んでいた概念が経験によって表面化しただけなのか.それは形而上学的な思索としては魅力的なテーマだが,まさにそれゆえに本書の範囲を超えている.

遠い祖先の進化を現代の未開種族の精神状態から判断する限り,数の起源はきわめてささやかなものだったと結論せざるをえない.鳥をも凌げない原始的な数感覚がもとになって,数の概念が生まれたのだ.数に対するその直接的な感覚がなかったら,人間はほぼ間違いなく,鳥の持つ計算技術より先に進歩することはできなかっただろう.しかし人間はいくつもの重要な出来事を通じて,自らのきわめて限定的な数感覚を補う技巧を学び,それが未来の人類に計り知れない影響を与えることとなった.その技巧こそが数えるという行為である.この宇宙を数を使って表現する上で我々が途方もなく進歩できたのは,まさに“数えるという行為”のおかげなのだ.

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