ちくま文庫

次世代へ託す希望
石牟礼道子 志村ふくみ『遺言 対談と往復書簡』(ちくま文庫)解説

9月のちくま文庫新刊、石牟礼道子 志村ふくみ『遺言 対談と往復書簡』、石牟礼さんの新作能「沖宮」をプロデュースした志村昌司さんによる解説を公開します。


 『遺言』は、作家・石牟礼道子と染織家・志村ふくみが2011年3月から2013年5月までの約2年間に行った往復書簡と対談をまとめたものである。『遺言』というショッキングなタイトルにも二人の並々ならぬ決意が感じられる。本書全体のテーマは新作能「沖宮」をめぐってであり、あたかもメイキングストーリーであるかのように話が進んでいく。『遺言』が2014年に刊行されたのち、2016年に「石牟礼道子と志村ふくみの願いを叶える会」が結成され、私も企画・制作として新作能「沖宮」公演への準備に本格的に関わることになった。本書に収められている原作から能の詞章を作る過程は決して平坦な道のりではなかったが、2018年秋に熊本の水前寺成趣園能楽殿、京都の金剛能楽堂、東京の国立能楽堂の3カ所で、能楽金剛流の協力のもと公演が実現する運びとなった。
 そもそも往復書簡のきっかけとなったのは、2011年3月11日に起こった東日本大震災と福島原発事故である。当時、石牟礼は84歳、志村は86歳、奇しくも震災当日は石牟礼の誕生日であった。約1世紀近く、自然と人間の関係、近代文明のあり方を考え続けてきた二人にとって、その衝撃は非常に大きく、なんとしても自分たちのメッセージを伝えたいという想いに駆られた。「今一ばんお話したい方は石牟礼さんです」という志村のたっての願いで、なんと震災の2日後から往復書簡が始まっている。
 石牟礼と志村の出会いは30年ほど前に遡る。常々『苦海浄土』や『椿の海の記』を愛読し、石牟礼を尊敬していた志村にとって、石牟礼との出会いはその後の人生に決定的な影響を与えた。柳宗悦の民藝運動から出発しつつも、近代化のなかで植物染料が駆逐され、自然が滅んでいくさまを目の当たりにしてきた志村にとって、石牟礼文学でしばしば登場する鳥や虫、魚、貝、花など、生きとし生けるものの生類の世界はまさにあこがれの世界であった。石牟礼が抱く、自然界のなかで慎ましく生きる人間像は、志村の「植物の命の色をいただく」「植物上位」という考え方と非常に近い。二人が生涯の魂の友になったのも当然である。
 石牟礼と志村の現代への危機感は強く、悲壮感すら感じる。石牟礼は「花を奉る」(本書18-19頁参照)という詩で、滅亡しつつあるこの世でなお一輪の花の力を信じる、という祈りのような想いを綴っている。志村も回顧展「志村ふくみ― 母衣への回帰―」(2016)で、「身に迫る危機は世界を覆っている」とこの世を憂いつつ、「人類はどこかでそれを喰い止める叡智をもっていると信じたい」と祈りを込めて述べている。危機にあって次世代へ希望を残したいという切実な二人の想いが往復書簡と対談を通して新作能「沖宮」として結実していく。まさに「沖宮」は二人の合作であり、遺言として残された作品である。
 「沖宮」はもともと「天草四郎」というタイトルであったが、その後「花の砦」、「草の砦」(『石牟礼道子全集 不知火 第16巻』藤原書店、所収)となり、最終的に「戯曲沖宮―おきのみや」として、『現代詩手帖』(2012年11月号)に発表された。その後、修正されたものが全集第16巻に収められ、さらに修正を加えた決定版が本書に所収されている。実質上、石牟礼の最後の作品といってよい。石牟礼は途中の原稿をたびたび志村に送っているが、このことからも「沖宮」がいかに志村の色彩世界と結びつきながら完成していったかがわかる。
 「沖宮」では緋色(ひいろ)と水縹色(みはなだいろ)が重要な役割を果たしている。石牟礼は志村が染めた色糸を見た瞬間に霊感が働き、天草四郎の装束は水縹色、あやの装束は緋色で表現したいと思ったという。緋色は紅花の花弁で染めた特別な色である。花弁では原則的に色が染まらないのに、紅花だけが例外である。志村によれば、紅花の色は「天上の紅」であり、12、3歳までの乙女に似合う色である。まさに5歳の「あや」にぴったりである。水縹色は、臭木(くさぎ)という木の実から染めた色である。志村は天からしたたり落ちた空色のような青という意味で、「天青(てんせい)」と名づけている。これも霊性の高い少年、天草四郎にふさわしい色である。ちなみに、臭木は数ある植物染料の中でも、特に志村の思い入れの深い植物で、「天青の実」(本書26-27頁参照)という詩まで書いている。
 植物の色は決して化学染料では出せない霊的な美しさがあり、自然の力を宿している。いわば植物の魂の発色とでも言うべきものである。植物の命の色には内実があり、深いところで大いなる自然とつながっている。志村はそれを「色霊(いろだま)」と呼ぶ。石牟礼の言葉に内包される「言霊」と志村の色に内包される
 「色霊」がぴったりと重なりあったところに、新作能「沖宮」が成立するのだ。
 「沖宮」の背景を理解するには、天草・島原の乱を描いた「春の城」を読まねばならない。「春の城」はもともと新聞に連載され、1999年に『アニマの鳥』(筑摩書房)として出版された。その後、全集刊行時にタイトルが「春の城」に変更された。構想は石牟礼が1971年に水俣病未認定患者とともにチッソ本社前にテントを張って座り込みをしたときに、ふと原城にたてこもった人たちも同じような状況ではないかと感じたところから生まれたという。「春の城」の天草四郎はカリスマ的存在ではなく、16歳の一人の生身の少年として描かれているが、石牟礼にとって天草四郎は終生特別な存在であり続けた。
 「天草四郎はどういう人だったのだろうか、と考えています」という石牟礼の言葉が今も私の心に響いている。さらに「春の城」では、「あや」を連想させる童女「あやめ」も登場する。天草・島原の乱の生き残りの「あやめ」が「沖宮」の「あや」となったのであろうか。
 「沖宮」は、よみがえりの物語である。人身御供として緋の舟にのった「あや」は大地が割れるような稲妻に打たれ、海底に沈んでいく。そこに亡霊となった「四郎」が現れ、手をとって沖宮へと道行(みちゆき)する。人身御供は究極の自己犠牲であるが、捨て身だからこそ沖宮へ行くことができるとも言える。石牟礼は、「沖宮」は「あや」と「四郎」の恋の物語であると述べているが、もしかすると、石牟礼は「あや」に自らを投影しているのかもしれない。沖宮とは「生命の宮」であり、宇宙の母性が宿る妣(はは)たちの国である。つまり、沖宮への道行は心中ではなく、「生き返るための道行」であり、緋色と水縹色はこの世を浄化する「よみがえりの色」なのである。滅びつつある近代文明のなかから、新しい希望を生み出したい、これが「沖宮」に込められた石牟礼と志村の悲願である。
 石牟礼は2018年2月10日に「沖宮」公演を観ることなく、90歳でこの世を去った。死の直前まで病床で「沖宮」を考え続けていたと聞く。次に紹介するのは、亡くなる十日前に口述された辞世の句である。
 「村々は 雨乞いの まっさいちゅう 緋の衣 ひとばしらの舟なれば 魂の火となりて 四郎さまとともに 海底の宮へ」
 「沖宮」はどこにあるのでしょうか、という私たちの問いに、石牟礼は「沖宮はあなた方の心の中にあります」と答えた。本書を手にする人が二人の遺言をどう受け取るのか、そこに生類の将来はかかっている。

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