ちくま学芸文庫

『確率微分方程式』解説

9月刊行のちくま学芸文庫『確率微分方程式』(渡辺信三著)より、重川一郎氏による文庫版解説を公開いたします。

 渡辺信三著『確率微分方程式』が出版されたのは1975年である.当時は産業図書から出版された.今から40年以上前の話である.今回ちくま学芸文庫の一冊として筑摩書房から文庫本の形で出版されることになった.この本がすでに古典として受け入れられたことを意味すると言ってよいだろう.渡辺信三氏は私の師に当たるので,以下渡辺先生と呼ばせていただく.そして,師の本の解説をここに書こうとしているわけである.恐れ多くはあるのだが,非力ながら最善を尽くしたい.
 この本は当時,確率微分方程式理論の最先端を行く書物であった.私はまだ大学院の修士の学生で,確率微分方程式の勉強を始めたばかりであった.私が大学院の修士課程に入学したのは1976年なので,この本は既に出版されていたけれど,実は別の本で勉強していた.この本は横目で見ながら,確率微分方程式の勉強をしていたことになる.この本は確率積分をマルチンゲールの枠組みで 解説した最初の本であり,その意味で最先端だったわけである.それ以前は確率積分はブラウン運動に基づく形でのみ定義されていた.それは「伊藤積分」と呼ばれるオリジナルな形の確率積分である.
 伊藤積分の伊藤とは伊藤清のことであり,渡辺信三先生のそのまた先生に当たる.私からすれば大先生である.(人は有名になると敬称を必要としなくなるように思える.私からすればその大先生を,最大の敬意を込めて伊藤清,と呼ばせていただく.) 伊藤清の『確率論』[4]という本を見たのはまだ私が学部学生の頃で,本自体が重厚なものだったせいもあり,歴史上の人物のように感じていた.後日ご本人にお目にかかることができるということなど想像もできなかった.実際にお会いしたのは私が大学4回生のときで,会ったのではなく遠くから拝見したというべきであろう.その後親しく接していただいたが,温厚そのものの人で,これだけ大きな仕事をした というイメージとは裏腹な,優しい人であった.
 私の思い出はさておき,話をこの本の主題である確率微分方程式に戻そう.確率微分方程式とは何か? 言葉で説明するより,数式を書いた方が話は早いだろう.それは次のような方程式である. \[ dX_t = \sigma(t, X_t) \,dB_t + b(t, X_t)\,dt. \tag{1} \] 簡単のために1次元で表示した.$B_t$ はブラウン運動で,$dB_t$ はその確率微分というわけだが,(1)は積分した形で \[X_t = X_0 + \int_0^t \sigma(s, X_s) \,dB_s + \int_0^t b(s, X_s)\,ds \] で意味づけを与える.$\displaystyle \int_0^t b(s,X_s)\,ds$ は通常の積分で $\displaystyle\int_0^t \sigma(s,X_s) \,dB_s$ が伊藤の確率積分である.(1)は $dB_t$ の部分がなければ $dX_t= b(t,X_t)\,dt$ すなわち \[ \frac{dX_t}{dt}= b(t,X_t) \] で通常の常微分方程式である.Newtonの運動方程式に典型的に見られるように,多くの自然現象は常微分方程式で記述される.これは決定論的世界で,初期条件を与えれば,解は一意的に定まる.一方,確率微分方程式はこれに$\sigma(t,X_t) \,dB_t$というゆらぎの項を付け加えた方程式であり,自然現象の中にはこうしたゆらぎの影響を受けているものも数多く存在する.また株価などの経済現象も,今日のことが分かっても明日のことを確実に予測することはできず,確率的にしか記述できない.このような現象を数学的に記述することができるのが確率微分方程式である.
 ところで(1)の解はマルコフ過程を定める.このマルコフ過程としての研究はコルモゴロフの論文[6]に始まる.コルモゴロフは確率過程$\{ X_t \}$の挙動を$\Delta X_t=X_{t+\Delta t} - X_{t}$としたとき \begin{align*} E[\Delta X_{t}| X_t=x] &= b(t,x) \Delta t + o(\Delta t), \\ V[\Delta X_{t}| X_t=x] &= a(t,x) \Delta t + o(\Delta t) \end{align*}で特徴づけた.ここで,確率を$P$で表すとき,$E$は$P$に関する期待値であり$V$は分散を表す.また$X_t=x$は条件付けを表す.この特徴付けからコルモゴロフは推移確率密度 $p(s,x;t,y)$ が満たすべき方程式を導いた.ただし推移確率密度は$P[X_t\in dy|X_s=x] = p(s,x;t,y)\,dy$で定義される.
 コルモゴロフは推移確率密度を見ていたが,確率微分方程式は確率過程そのものを見ていると言ってよいであろう.\begin{align*} E\biggl[\int_t^{t+\Delta t} \sigma(s, X_s) dB_s\bigg| \mathscr{F}_t\biggr]&= 0 \\ V\biggl[\int_t^{t+\Delta t} \sigma(s, X_s) dB_s\bigg| \mathscr{F}_t\biggr] &= \int_t^{t+\Delta t} \sigma(s, X_s)^2 ds \end{align*} などの確率積分の基本的な性質を使えば $a=\sigma^2$ として,コルモゴロフの定式化が自然に導かれる.$E[\ \cdot\ |\mathscr{F}_t]$ は時刻 $t$ までのブラウン運動の情報での条件付期待値を表す.確率微分方程式の方が自然で,直感的にも理解しやすいものに思える.しかし,歴史的にはコルモゴロフの研究が先で,それがあって伊藤の確率微分方程式の理論が出てくるのである.この間,伊藤がどのような経緯で確率積分の着想を得たかの解説が[5]にあるのでそちらも見られるとよい.コルモゴロフの論文[6]はちくま学芸文庫[7]の中に日本語訳が収録されており,この確率微分方程式の本書に自然な形でつながっている.その意味で本書は時宜にかなった企画ということができる.
 この本が最初に出版される前には,確率微分方程式の教科書は,McKean[9]やFriedman[1,2]などが出版されていた.私が勉強したのはFriedmanの本である.渡辺信三先生の指導の下でこの本を読んでいた.渡辺先生の本は既に存在していたのだが,それは自分で勉強しなさいということだったのであろう.だから私は渡辺先生の本を横目で見ながら確率微分方程式の勉強をしていた.横目で見ながら,しかしこの渡辺先生の本の印象は「かっこいい」なのである.定式化がかっこいい.駆け出しの学生から見て,やたらとかっこいい.それと言うのもマルチンゲールの枠組みで定式化がなされているからである.しかも当時の私はマルチンゲールこそ確率論の中心概念であると思っていた.だが,私が勉強したのはブラウン運動に基づく確率積分の理論であった.それは国田-渡辺によって,ブラウン運動だけでなく,マルチンゲールに対して拡張できることが1967年の論文[8]に発表されていた.当時の最先端をいく結果で,ずいぶん話題になったものである.私が読んだFriedmanの本は,そうした最新の成果まで取り入れたものではなかったのだが,最先端の渡辺先生の本が今や文庫で読めるようになるわけだから,隔世の感がある.
 応用的な問題にかかわる確率微分方程式は,多くの場合ブラウン運動に基づく確率積分で記述されるが,マルチンゲールという枠組みは一般化と統一的な視点を与え,応用の範囲を大きく広げた.最近数理ファイナンスへの確率積分の理論の応用が注目を集めているが,その基本定理の証明にはマルチンゲールの枠組みでの確率積分の理論が本質的に用いられている.マルチンゲールは公平な賭けのモデルで,丁半賭博はその典型的なものである.当たれば掛け金が倍になり,はずれれば掛け金が没収される.毎回100円を掛けるとすれば,所持金が100円増えるか100円減るかで,それぞれが確率 $1/2$ で起こる.$\pm 100$がそれぞれ確率$1/2$なので期待値は$0$というわけで,したがってゲームとしては公平なものとなる.経済活動においてもマルチンゲールという概念は自然なものである.株などの商品の売買を行うのに,売り手に一方的に有利な市場も,買い手に一方的に有利な市場も,経済的には不自然な状況である.実際不利とわかっている側には付かないものだ.市場が安定しているためにはある種の公平な状況が実現しているはずで,それが実際マルチンゲールとして現れてきているわけだ.従って数理ファイナンスでも,マルチンゲールという概念は原理的なところで重要な役割を果たしている.読者はこの本でマルチンゲール理論の概要を知ることができ,また有用性を実感することができるであろう.
 よく「国田-渡辺の不等式」と呼称される不等式がある.本書第2章の補題3.1がそれにあたる.これはもちろん先ほどの論文の中で初めて述べられたものである.重要な不等式であることは間違いないが,これこそ理論の核心と言うべきものとは性格を異にする.世の中,ときにこういう言及のされ方をするものだ,と先生が苦笑されていたのを思い出す.対して伊藤の公式は,これは紛れもなく理論の核心と言ってよい.

 さて,確率微分方程式の理論はこの本に詳述されているが,それ以後の発展として重要なものにMalliavin解析がある.これは確率微分方程式の解析をさらに深化させたものである.確率微分方程式の解は,線型な場合など特殊なものを除いてブラウン運動の汎関数としては連続ではない.連続でさえない関数を微分しようという発想はふつう生まれてこない.しかしMalliavin解析の発想はその関数を微分しようということなのである.ただ微分の意味はSobolev空間の枠組みで定式化され,一種超関数的な微分概念になる.各点の意味で微分できるわけではない.微分概念としては一般化された枠組みにはなるが,単に微分できるだけでなく,無限回微分可能であることさえ証明できる.これは有限次元のときとはかなり違っている.有限次元の場合は,微分の階数が上がれば連続性が自動的に従うが,ブラウン運動の場合は無限次元なので,こうした違った現象が現れてくることになる.Malliavin解析は,熱方程式の基本解の準楕円性の証明や指数定理の証明などにも応用されている.これらの発展については池田信行氏との共著になる[3]を見られるとよい.本書を読まれた方には次のステップとして最適の本であるので,特にお勧めする.
 最近のことも少し述べておこう.最近の発展の中にrough path理論というものがある.この理論の創始者はTerry Lyonsである.名前からの連想もあるが,風貌からしてどことなく野性的である.その彼に,rough path 理論の発展の初期の段階でコーネル大学で会ったことがある.彼とは知らない仲ではないが,さりとて特に親しいというわけでもない.会えば挨拶を交わしたりはする.そのときもシンポジウムの会場に行く途中で彼に出会ったので,やあと挨拶をすると,Terryはどういうわけか寄って来て,やおら数学の話を始めた.それもいつになく熱くなっている.確率微分方程式の解の話で,前にも述べたが確率微分方程式の解は一般にはブラウン運動の連続な関数にはならない.だがTerryによると,それが連続な関数になるという.もちろんTerryだって,確率微分方程式の解がそのままではブラウン運動の連続な関数にならないことは百も承知だ.彼のアイディアはLévyの確率面積(stochastic area)を同時に考えるということだった.ブラウン運動とLévyの確率面積の二つを同時に考えると連続になるという.これは言ってみれば確率積分を path ごとに定義することに相当する.こちらは聞いていて半信半疑.結局私はそのとき彼の真意を理解することはできなかった.惜しいことをした.このときに彼の理論の重要性に気が付いていれば,私はこの分野の日本における先導者になれたかもしれなかったのだ.結局私はそこまで先を見通す力を持っていなかったというわけだ.
 このようなことを考えると,学問の発展というものは,今までの枠にとらわれない自由な発想からもたらされるものかもしれない.一つ一つのブラウン運動のpathは有界変動ではないので,従来のLebesgue-Stielties積分の意味では定義できないが,伊藤積分は確率$0$の除外集合をうまくより分けて$L^2$的に定義したものと言える.ところでLyonsのrough path理論は,再びpath毎の積分に立ち帰ったことになる.数学の発展の歴史には,このように螺旋状に発展することもあることを示した典型例である.しかし各発展の段階で,単純に過去の理論が捨て去られたわけではない.あくまで今までの理論を踏まえた上での発展である.標準的な理論というものの価値は時を経ても失われることはなく,新たな発展の礎となるものである.この本に述べられているのは確率微分方程式の標準理論であり,読者の中からこの理論を自分のものとして身に着け,さらにそれを打ち破っていく人が出てくることを切に望みたい.そのための基礎を与える本として,この本は十分価値のあるものである.

参考文献
[1] A. Friedman, Stochastic differential equations and applications, Vol. 1, Academic Press, New York–London, 1975.
[2] A. Friedman, Stochastic differential equations and applications, Vol. 2, Academic Press, New York–London, 1976.
[3] N. Ikeda and S. Watanabe, Stochastic differential equations and diffusion processes, Second edition. North-Holland Mathematical Library, 24. North-Holland Publishing Co., Amsterdam; Kodansha, Ltd., Tokyo, 1989.
[4]伊藤清,確率論,岩波書店,東京,1953.
[5]伊藤清,確率微分方程式――生い立ちと展開――,数理科学,pp. 5–9 ,サイエンス社,東京,1978.
[6] A. Kolmogoroff, Über die analytischen Methoden in der Wahrscheinlichkeitsrechnung, (German) Math. Ann., 104 (1931), no. 1, 415–458.
[7] A. N. コルモゴロフ,確率論の基礎概念,坂本實訳,ちくま学芸文庫,筑摩書房,東京,2010.
[8] H. Kunita and S. Watanabe, “On square integrable martingales,” Nagoya Math. J., 30 (1967), 209–245.
[9] H. P. McKean, Jr., Stochastic integrals, Probability and Mathematical Statistics, No. 5, Academic Press, New York–London 1969.

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