この文章を読んでいるあなたはたぶん、読書家だ。
読書家とは「文章を読むのが途方もなく好きな生物」のことだ。読書家はつねに本を持ち歩き、電車や風呂やトイレや歯医者の待合室で読み、それでも読み切れないほどの本を買って積む生態的特徴を持っている。かくいう私も読書家に生まれつき、昔はそんな自分を恥ずかしく思ったこともある。なにしろひと昔まえの読書家ときたら、本を持ち歩くためにつねに大きめの鞄を装備し、街で詳しい場所は書店だけというありさまで、スマートさとは縁がなかった。
ところが近年はスマートフォンとインターネットと電子書籍のおかげで紙を持ち歩かなくても文章が読めるようになった。スマートフォンは片手で操作でき、電子書籍は文字の大きさを変えられ、明かりもあるから暗い場所でも読める。しかもどれだけ長くても格納できてしまうのである。小さなハンドバッグでわが積読コレクションを持ち歩けるとは、まさしくスマート! けれどいまでも、ときたま電車のなかで分厚い本を広げて読みふける子供をみることがあって、そんなときは懐かしくて嬉しい気持ちになる。
ミヒャエル・エンデの名作児童文学『はてしない物語』の日本語版は、立派な装幀の豪華で分厚い本だった。この本はもう私の手元にないのだが、記憶によれば主人公は、見かけも成績もぱっとしない少年バスチアン。雨の日にいじめっ子を避けて逃げこんだ書店で「はてしない物語」という本をみつける。些細なシーンをいまだに覚えている。書店の主人とバスチアンが出会って名前を告げるところが好きだった。「名前は」「バスチアン・バルタザール・ブックス」「Bが三つだな。私はカール・コンラート・コレアンダー」「Kが三つですね」
バスチアンもまた読書家で、特に物語が好きな亜種。物語が終わるのがさびしくてたまらないから「はてしない物語」という題名は格好の餌になる。長いものが好きな私にも同じことだった。はてしない、終わりが来ないとは、長い長い物語ということだ! 期待して読みはじめた『はてしない物語』で主人公バスチアンは本を万引きし、隠れて読み進めるうちに、自分自身がこの物語の登場人物となっていることに気づく。やがて滅亡しかけた物語世界の救世主として物語の中に召喚された彼は、想像力を使って物語の新しい展開を作りだしていく。
このお話については大好きだったシーンと同時に、初読のとき結末で味わった一種の失望を思い出す。正直なところ私は「この題名はずるい」と思ったのである。その後何度も読み返したおかげで題名の意味と作家のメッセージは理解したと思うものの、初読の記憶はいまだに鮮烈だ。なぜか。
『はてしない物語』が「はてしない」と名乗る理由は、主人公のバスチアンが自分のはじめたお話を自分で終わらせることができない、という点にあるからだ。彼は自分が原因で生まれた無数の物語を終わらせる役目を友人にまかせ、現実に帰ってしまう。これは子供の私にとって相当な肩透かしだった。はてしない物語とは長く長く続きが待っているお話ではないのだ! 残念ながら当時の私には「無限」と「どこまで続くか見通せないくらい長い」ということの区別がつかなかったのである。
PR誌「ちくま」9月号より河野聡子さんのエッセイを掲載します。