この原稿は、あごの下の脂肪を手でつまみながら書いている。ここ数年の癖だ。自分が維持したいと思う体重から、八キロあまり超過している。
三年前に、ある本を読んだのがその原因だ。その本は「摂食障害」と病名をつけられた女性たちのインタビューをもとに、「やせた身体」を理想とする社会について、文化人類学的視点から書いていた。食べ物があふれる社会では、食欲に負けずに自己管理をし、やせた身体であることが望ましいとされる。特に「見られる性」である女性は、その価値観の影響を強く受けやすい。そして一般的には推奨される栄養素やカロリーを管理する食べ方は、過食や拒食の食べ方と地続きであるのだという。「〇〇kcal」といった数字に食べ物が変換されてしまい、「友人と食べるケーキ」のような文脈に目が向かずに、だんだんと美味しさを感じられず、ふつうに食べられなくなっていく。
読んでいて、どきりとした。その時の私はまさに、自分の体重を維持するために糖質制限をしていたからだ。
カロリーや栄養素を気にせずに、美味しく食べよう。「やせたい」気持ちなんて古くてダサくて害悪だ。本を読み、そう考えた。欲望のまま食べていたら太った。当然の結果だ。しかし私は鏡に映る自分の姿を見て、落ち込んでいた。やせていた自分の方がかわいい感じがした。とはいえ「やせたい」とは思いたくない。あべこべな感情を処理できず、気がつけば食べたくもないのにカップ麺をすすることが増え、体重もまた増えた。落ち込むことも増えた。
先日、そんないわくつきの本を書いた磯野真穂さんの新刊『ダイエット幻想』(ちくまプリマー新書)が刊行された。中高生も手に取れるレーベルだという。素晴らしいことだ。しかし読むのは恐かった。また太ってしまったらどうしよう。いっそドラゴンや妖精の幻想を見ることでやせる「幻想ダイエット」だったらよかった。
おそるおそる開くと、こんな一文から始まった。〝この本をあなたがいま開いているということは、きっとあなたが心のどこかで、「やせたい気持ちとうまく付き合えていないこと」に気づいているからだと思います〟おっしゃる通りだ。
本書は「やせたい」気持ちがどこからやってきたのかを解きほぐしながらも、その気持ちを否定せずに進んでいく。特に興味深かったのは、文化人類学的観点から「距離を取ったほうが良い」ダイエットを挙げた第七章だ。
「これさえ避ければいいという強烈なタブー」「大胆な変身の物語」「カリスマの存在」
挙がった三点の条件には、巷で有名なダイエットのほとんどが当てはまりそうだ。たとえば、糖質制限ダイエットのような、強烈なタブーのあるダイエットでは、タブーが糖質への渇望を生み出し、むしろ「糖質中心」の生活になってしまう。そして、そのようなダイエットは、「曖昧な食べ物があふれる現実に対応しきれない」のだと指摘する。
ここまで読んで、気づく。もしかして、私は「やせたい」をタブーにすることで、曖昧な価値観のあふれる現実に対応しきれなくなっていたのではないかと。ややこしい。
そしてここで言う「幻想」とは、ダイエットに限らず、「なんでもコントロールできる」と過信することなのではないか。身の回りや自分自身を管理できることが素敵な社会の中で、従えていたはずのものが、むくむくと大きくなり、火を噴くドラゴンのように手がつけられなくなる。それは、私とカップ麺の関係、「やせたい」気持ちとの関係であり、ついでに言えば浪費しがちなお金との、つい飲みすぎてしまうお酒との関係でもある。思えばカップ麺だって、半日授業が終わった土曜の昼に、吉本新喜劇を見ながら食べる自由の味だったはずなのに、いまや大きな脅威になってしまった。やせたい気持ちを強く否定しないぞ。本を読み、そう考えた。
というわけで、最近は、七〇パーセント糖質オフの発泡酒をよく飲んでいる。これでいいのかは正直わからない。