その簡素な山里の村の名を聞いたのは高校生の頃で、いつか行きたいと思っていたのだが、実際に訪ねたのは、ついこの間である。四十数年かかってたどり着いた、のかもしれない。南九州の野山をいくつも越えて、もうすぐ東シナ海へ出るぞ、というようなところにその村はある。県道の脇の駐車場に車を停め、竹藪の小道を丘の上へ向かって歩いていくと、何やら竈のようなものが、半分土に埋もれるようにして竹藪のなかに見える。小山のように盛り上がり、蔓や野生のハランなどがその小山の正体を覆い隠さんばかりに生い茂っている。窯の口はいくつかあって、それぞれ耐火煉瓦のようなもので縁取られている。調べるとそれは古い登り窯の跡なのだった。元々は竹藪ではなく、打ち捨てられているうちに竹があちこちから出てきて、やがて竹藪になってしまったのだろう。いつかは埋もれて、跡形も無くなっていくのだろうか。ひと昔前までは、確かに鄙びた、俗気のない村だったのだろうが、今ではそれが美風ともてはやされる様になって、村内のあちこちにカフェやレストラン、雑貨の店が散在している。今ふうのセンスの良いマップに従って、各々の店を回るコースもあるようだ。そういうといかにも時流に乗った騒々しく賑やかな場所に変貌したように聞こえるが、実際はそういう店々も村の家並みを壊さない、ひっそりとした佇まいで、「隔世の感がある」とか、「せっかくの雰囲気が台無しだ」とかいう状況では、まだまだ、ない。店のオーナーの大部分は村外の出身で、働く人も村外から出勤してくるようである。店を運営する側も私のように観光目的(?)でやってくる側も、この村の佇まいが好きでやってくる人たちであることは間違いがなく、皆、暗黙のうちに何かを壊さぬよう、そっと協力し合っている気配がある。でも、何を? 何を「壊さぬよう」協力し合っているのだろう。
そこは、今から四二三年前、慶長二年(一五九七年)に始まった豊臣秀吉の朝鮮出兵の折、島津義弘がかの地から連れ帰った陶工たちを祖に持つ人びとの村だった。連れ帰ったといっても、陶工たちは別の船で、しかもどういうルートを辿ったのか、実際に薩摩の浜に着いたのは主船の帰還よりずいぶん後のことだったという。紆余曲折ののち、故郷の風景を思い出すというので海岸から内陸にしばらく歩いたその地に居を構え、爾来ずっと、明治維新まで、朝鮮の言葉と風俗を守り続けた。それは藩の方針でもあったのだが、すでに故郷を知らぬ子孫の間にも、代々故郷を恋う思いは遺産のように引き継がれていった。望郷の思いが、村の土に染み込んでいるのだった。
高校生の頃、初めてその村の名を聞いたのは、十四代・沈壽官氏の講演でであった。愛おしそうにご自分の生い育った村の歴史を語られた。まるで私たち生徒を伴って村内を散策しているかのように村の丘を語り、神社を語り、ご自分の窯を語り、作陶を語り、遠い父祖の地をも語られた。あふれんばかりの豊かな愛情が場内を包んでいるかのようだった。
土地を思う気風は美意識になって、それぞれの焼き物に現れているのだろう。あれから四十数年が経ったけれど、訪れる人も、その人たちを相手に村で商いをする人たちも、そしてもちろん元々からの住民の方々も、四百年以上もここで静かに醸成されてきた「故郷の土地を恋う思いの美意識」を壊さぬよう、台無しにせぬよう、協力し合っているように思えるのだった。
地名はそれぞれ、独自の風貌を持つ。地名の向こうには、人が深く故郷を思う気持ちが見え隠れしている。その土地を知らない人間にも、その気配は感じられる。故郷はその人のアイデンティティによほど深く関わるのかもしれないが、記憶にある限り住んだこともない土地にも、人は思いを馳せ、そしてその地名を脳内のどこかにコレクションする。ここは昔、苗代川と呼ばれ、今は美山と呼ばれる地。
今回上梓する『風と双眼鏡、膝掛け毛布』は、そういう地名を集めた本である。
梨木香歩『風と双眼鏡、膝掛け毛布』が刊行されました。PR誌『ちくま』で約4年にわたり連載してきた地名にまつわるエッセイの、待望の単行本化です。この本に込めた思いを、番外編のようなかたちで著者本人に書いていただきました。PR誌『ちくま』4月号より転載。