作業室の庭に巨大なけものが侵入してきたのは、夜中の3時ごろでした。小さな丘をのぼって木をかき分けて入ってきたそいつは、疲れたように庭に座り込み、白い息を吐いていました。ホッキョクグマでした。悪く見れば地球最強の猛獣であり……よく見れば、けっこうしゃれた奴でした(赤いマフラーをしてましたので)。ちょうど窓際に立っていた私は、奴と目が合ってしまいました。生まれついての楽天家でなければたぶん誰だって、その場でおしっこもらしたと思います。といって、
そのまま何もしないわけにはいかず、私はガラガラッと窓を開けて庭へ降りていきました。おーい、ここ、僕んちなんだけど、いったい何やってんの? あーわかってるわかってる、だからー、地球温暖化のせいだろ? 食べもの探して、ここまで降りてきたのか? 十分に理解できるよという調子で、私は接近を試みました。奴はじーっと私をにらみつけたかと思うと、こう言ったんですよ。紙面も限られている中、常識的な経緯については省略しないか? 地球温暖化、食料不足……そんなことは説明しなくてもみんなわかってんだろ。紙面の限られた私はめんくらう余裕もありませんでした。とにかく、
お前を食べなくてはならないと、クマは言うのでした。悔しいかもしれないが、それはお前らのやったことの結果だからね。と奴は言いました。コカコーラでなだめることはできないかとも考えてみましたが……コマーシャルを撮るんでもあるまいし、クマを相手に卑屈になるのは嫌でした。おまえ、車の運転大好きだろ? 工場で作ったもん買って、着て、食べて、出して、そうやって生きてきたんだろ? 屁もだいぶこいただろ? 家庭生活においては誠実だったか? 奴は、判事みたいにそう言うのです。家庭生活も地球温暖化に関係あるのか? としばらく考えてみましたが、紙面も限られているので質問するのがためらわれました。だからといって、このまま死ぬわけにもいきません。
やむを、えまい、じゃあ、一対一の対決をしようと、私は言いました。勝った方が相手を食べるんだ。と、言い終わるや否や、奴ががばっと体を起こして立ち上がったんです。クマは直立可能な動物か? まるで知らなかったことを知らされてみると、時すでに遅し。ぬっと突っ立ったその背丈は、ぱっと見ても三メートル以上……奴は首に巻いた赤いマフラーをほどくと自分の腰に巻きました。そしてぎゅっと結びました。え、何やってんの? 橋本真也みたいに……。私は小さなうめき声を発しました。垂直落下式DDT(*)でもくらったのか? こう見えても
私も胸囲は130センチに達する人間なんですが……奴の前に立ってみると自分があまりにもちっちゃくて……かぼそくて……かよわすぎるって気がしてきました。そのうえ、地球温暖化の主犯だなんて……比較的清らかに生きてきたと思ってたんですが、そんなの客観的なものさしになりえませんよね。地球温暖化を議論するなら、結局すべての人間は共犯であり、主犯だってことになりますからね。どーしょもないですよね。上半身裸になって、私もポーズを決めました。そして渾身の力をこめて左ジャブを打ち込んだのですが……何だそりゃ、赤ん坊相手の「めっ!」てか? とホッキョクグマの失笑を買ってしまいました。がっくり力が抜けて、私には自分がさらにちっちゃく……かぼそく……かよわく感じられました。怒りが月光を浴び、清楚な涙までこみあげてくると、こりゃまたどうしたことか、橋本環奈になったみたいな気分になりました。
こんな僕を、殴るの?
こんなにちっちゃくて、かわいいのに、殺すの?
アイドルダンスを踊りながら私が聞くと
口をあんぐり開けて
奴は、答えられませんでした。
紙面も限られている折、ハッピーエンドで行こうか。並んでベンチにこしかけて、ホッキョクグマと私はコーラを飲みました。私たちは黙って夜空の星を見、腰の帯をぎゅっと締めたオリオン座(今日だけは橋本真也座と呼んであげたいものです)の下であれこれと話をしました。ああだこうだ言っても、人間のやることは全部プロレスみたいなもんだよ。それは悲しいことでもあるし、おかしいことでもあるよな。どんなにわーわーごたごたやって、深刻そうにしてみたところでさ。と、私が言いました。
わかってるのに、どうしてああなんだろな。と、ホッキョクグマが言いました。わかってるからそうなんだよ、人間の文明ってのは、まさにプロレスなんだから。と私が答えました。好きにしろよ、金を稼ぐ奴はほかにいるだろ。ホッキョクグマは地球の歴史についてかなりよく知っていました。それでこんな一言もつけ加えたのでしょう――どーしょも、ないもんな。私は二の句がつげず、しばらくうなだれるほかはなく。そして結局……こう言いました。ごめんな。ほんとに悪いと思ってるんだ。一緒にうなだれていたホッキョクグマは、きっぱりとした声で言いました。
時は来た。それだけだ。(**)
時は来ました。翻訳者の斎藤真理子さんから、1月28日に東京でイベントがあると聞きました。そして、短いメッセージを頼まれたのですが……ほんとのところ、いかなる場合でも私が読者の皆さんに差し上げられる文章は一つだけなんです。ありがとうございます。この一行の文章の上に、誠意を示すためにちょっとだけホッキョクグマと……橋本環奈さん、そして故人となられた橋本真也さんのお名前を招待してみたわけです。年をとるほどに、文章を書くことも世の中に迷惑かけるんだなあとしきりに思います。東京のどこかからイベントの会場まで、
寒い中を移動して、またイベントが終わったら夜道を帰られる皆さんに迷惑かかっていないか、韓国には「已往之事」という言葉をときどき使いますが……もうこうなってしまった(已往)以上、「楽しい時間」になりますよう、切にお祈りします。次の機会がありましたら、そのときはぜひ東京を訪ねたいと思います。もう一度、ありがとうございます。どーしょもないことながら
幸せな一夜になりますよう。
韓国にて パク・ミンギュ
*故・橋本真也氏の必殺技として知られる技(でも、誰も殺しませんでした)。
**橋本真也氏が残した有名な言葉です。