ちくま新書

激動の韓国を動体視力で描ききる
伊東順子『韓国 現地からの報告』書評

伊東順子『韓国 現地からの報告』(ちくま新書)について、翻訳者の斎藤真理子さんによる書評を掲載します。 『82年生まれ、キム・ジヨン』を斎藤さんが訳されたとき、伊東さんの解説が必須と考えられたそうです。 伊東さんの文章、そしてこの本の魅力は何なのか? その秘密に迫ります。 (PR誌「ちくま」2020年4月号より転載)

 伊東順子さんの文章は動体視力がずば抜けている。

 韓国社会はきわめて変化が激しいので、一緒に動き続けていないと見えない、わからない部分がたくさんあるのだと思う。伊東さんは、いわば走りながら、韓国の現実を一目で立体的にとらえることができる稀有な人だ。

 例えば走りながらある建物を見たとき、壁に何か大きな像が見えたとしよう。でも、その像が浮き彫りになっていたのか、または凹んでいたのか、ぱっと見ただけでは見抜けないこともあるだろう。凹凸を逆にとらえれば逆の見解が生まれてしまう。伊東さんの韓国レポートにはその恐れがない。社会の文脈、歴史の流れ、そして韓国現地の人々の声を踏まえているから、立体感を一目でつかめるのだ。

『82年生まれ、キム・ジヨン』(チョ・ナムジュ著、拙訳、筑摩書房)を翻訳するとき、この本にはちゃんとした解説がなければ日本での出版は成立しないと思い、最初から伊東さんに頼むつもりだった。兵役という日本にはないシステムと、それが社会に及ぼす多大な影響を理解することが必須だからである。ご本人はずいぶんと固辞されたのだが、結果として見事な解説を寄せてくれ、それは本書にとって非常に幸運なことだった。

『韓国 現地からの報告』(ちくま新書)は、2014年からの5年間に韓国に起きたさまざまな変化を ①日韓を行き来することで気づいた日韓の認識のズレ ②大声では語られることのない、一般の韓国人の本音 ③メディアには登場しない韓国の人々の日常の暮らし という3つの視点を踏まえて描きだした本だ。ウェブ媒体に連載されたものを中心に、新たな書き下ろしも加えている。既出の文章の末尾には必要に応じて、現時点から見たコメントがついているし、第1章から第3章の章ごとに年表も付されており、理解の助けになる。

 動体視力がずば抜けていると書いたけれど、耳もとても良いのだろう。25年以上韓国で暮らし、ジャーナリストとして働き、さまざまな立場の人たちの話に耳を傾けてきた人ならではの分析は実に読み応えがある。「とても勤勉な人々、それを可能にする強靭な肉体、その基本にある健全な食生活、これが韓国の底力だ」と伊東さんは言う。

 第1章から第3章までの章タイトルを並べてみると、「不信」「政変」「歓喜から混乱へ」となる。これだけでも激動の一端がわかるだろう。セウォル号事件から巨大デモとダイナミックな政権交代へ、そして今、文在寅政権が直面している困難。私はこれらの文章がウェブ上に発表されたときに必ず読み、そのときどきでたいへん参考にさせてもらったが、改めてまとめて読んでみるとドキュメンタリーとしての迫力が束になって押し寄せてきて、圧倒された。

 第4章と第5章では趣向を変えて、多くの人が興味を持っている韓国の教育事情や日韓をつなぐ旅の話題など、政治・外交以外の話題を集めている。この構成はとても興味深い。というのは今、韓国に関心のある人が二極化しているような気がするからだ。政治・外交にしか関心のない人たちと、K-POPを筆頭とする韓国文化と韓国社会、韓国人に興味がある人たちと。その間には世代差があるし、また、ごく大雑把に見れば前者が男性、後者では女性が優勢といえるかもしれない。

 そしてこの2つのグループは、あなた方が見ているのは同じ国ですか? と言いたくなるほど違う韓国像を持っているのだ。だから、このように抱き合わせになっていることによって、読者は自分の知らなかった韓国像に触れることができるかもしれない。

 最後にもう一言だけ伊東さんの言葉を紹介したい。「大切なのは人々の話をじっくり聞くこと。自分の主張も大切だが、まずは一歩下がって他人の意見を聞いてみる」。本書は韓国と日本について考える本であるだけでなく、不安の中を生きていく私たちにとって絶好の「21世紀の歩き方」ガイドなのだと思う。