斎藤真理子:今日は、作家のパク・ミンギュさんが送ってくださったプロレスマスクを着用しております。岸本先生に着ていただきましたマントもパクさんからの贈り物です。説明しますと『ダブル』(『短編集ダブル サイドA』『サイドB』)の原書は2冊組でこんな表紙なんですよ。
岸本佐知子:かっこいい。表紙の写真はご本人なんですよね?
斎藤:はい。ご本人がプロレスのマスクをかぶっています。ブルー・デモンとエル・サント。いま私が着用しているマスクはミル・マスカラスのものなんです。『ダブル』の翻訳をしてくれてありがとうということで、私の元にもマスクとマントが送られてきて、「もし不要なら本日のお客様のどなたかに差し上げればいいのではないかと思います」というお手紙がついていました。「私が着用します」とお答えをしたら、パク・ミンギュさんの奥さんからメールが来て、「夫が申東曄(シン・ドンヨプ)創作賞を受賞した際に、マスクを着用して受賞式に臨んだところ最後の方には冷や汗をダラダラ流していたので、長時間使う場合は気をつけてください」という注意をいただきました。
岸本:このマスクと、マントは由緒正しいんですよね?
斎藤:あまり海外旅行に行かないパクさんが、メキシコに行って買ったそうです。
岸本:自分の本の表紙にしてしまうくらい、パクさんはプロレスファンなんですね?
斎藤:プロレスに限らず、サブカルでもなんでも詳しいんですよ。いろんな事がお好きなので、そこからヒゲ根のように細かい知識がいっぱい出てますね。
パク・ミンギュからのメッセージ短篇小説
斎藤:マスクとマントと共に、会場にいらした皆さんへのメッセージをいただきました。「もしよろしければ、皆さんに」と言ったら、ミンギュさんって、何かひとこと言うと27.8ぐらい返ってくるんですよ(笑)。
岸本:これは、彼的にはひとことぐらいのつもりなのかな?
斎藤 よくわからない。0.5ぐらいなのかもしれないけど、翻訳していてわからないことを聞くと、こ~んな返事が来て、それが翻訳できなかったりするんですよね(笑)。なるべくオーダーを出さないようにしているんですけど、つい口がすべっちゃったら、いきなりホッキョクグマですよ。
岸本:だいたい、これはメッセージじゃなくて普通に小説ですしね(笑)。これもプロレスがテーマですよね。橋本真也という人が出てくる。私は全然プロレスを知らなかったので、「橋本真也」のウィキを読んだら、それがむちゃくちゃ面白くて、今日出てくる前の忙しいときに読みふけっちゃって。プロレス団体に入所したその日に、洗濯機の使い方の順番を巡って誰かと大乱闘したとか(笑)。付き人に、パチンコか何かで撃ったスズメを「美味しい鶏だ」と言って食べさせたら、その付き人がそれから10キロ痩せちゃって、付き人が心配して保健所に電話をかけて、伝染病に罹ったんじゃないかと聞いた。しかも、そのすぐ下の項目に、だけど、橋本さんはすごく料理が上手で、だから、撃ったスズメもちゃんと湯がいて、全部毛とか抜いて、きれいに調理して食べさせたと書いてあって、なんかもう、どこまでもおかしい人だなって。
斎藤:エピソードに富んでますよね。
岸本:何度か爆笑したポイントがあって。あと、橋本さんの有名なセリフで「時は来た。それだけだ」と。登場のときに、蝶野と組んでいて、橋本さんがすごい芝居がかって「時は来た!」と言って、蝶野に目で振ったら、蝶野に完全にスルーされたので、しようがなくて「それだけだ」と自分で言ったって(笑)。
パク・ミンギュの短篇の魅力
斎藤:パクさんは自分は空気の中に物語がいっぱい浮かんでいて、たまたまつかんだものを書いているみたいに言っていたことがありました。普段は蛇口を閉めておくけど、開けたらワーッと入ってきちゃうみたいな人ですかね。『ダブル』は2冊合わせたら600ページぐらいありますし、読むのが大変だったでしょう。
岸本:あっという間でしたよ。でも前の短篇集『カステラ』の時と、「え、同じ人?」というくらい違いました。『カステラ』はかなりポップで、飛び道具多めで、急に突拍子もないことになったり。
斎藤:『カステラ』が韓国で出版されたのは2005年ですね。それが2014年に日本で紹介されたときには、韓国のマジックリアリズムという感じに受け止めた方が多いと思うんです。日常から地続きでふと変な世界に行く。『ダブル』では最初から日常の話は日常の話、ぶっ飛んでいるのはSF、と二層に分かれている感じが強くしますね。
岸本:『ダブル サイド A』の最初の2篇は超リアリズムで、「パクさん、こんなの書くんだ」ってちょっとびっくりしました。でも実はパクさんは球種が豊富な方なんですね。
斎藤:文壇の偉い人たちの間でも「パク・ミンギュはこんなの書けるんだ」という感じだったんじゃないかと思います。ちなみに始球式で投げたこともあるって(笑)。韓国で始球式に出た唯一の作家だと思うって自負されていたので、今の言い方はご本人がすごく喜ぶような気がします。確かにいろんな文体、いろんなスタイルがとれる人ですね。
岸本:それに『カステラ』の時は、若者の閉塞感とか生きづらさを描いたような作品が多かったですが、『ダブル』では、老いとか死が描かれていますね。
斎藤:そうなんですよ。昔も老いとか死をテーマにした作品は書いていたと思うんですが、『カステラ』は若者への視点を軸に編んだんだと思うんです。『ダブル』は年齢層が多彩でしょう。
岸本:そうそう、老老介護の話とかもあって。ただ『カステラ』と『ダブル』で共通している点もあって、それは、上手くいってる人があんまり出てこないこと。社会からはみ出ちゃったような人々とか、立ち行かなくなった人々への寄り添うような感じは変わってない。
韓国の格差、不動産問題
斎藤:そうですね。韓国の格差の上層にいて、うまくいってるのは本当にごく一部です。パクさんが描いているような人は、必ずしも少数派ではなくて、韓国で厚みのある層です。
岸本:韓国は日本よりも格差がありますか?
斎藤:IMF危機(1997年)で格差が拡がったというふうに言われていて、その後もどんどん開いているように感じます。例えば『ダブル サイド B』に「ビーチボーイズ」という大学初年くらいの男の子たちの話がありますが、あの作品を書いてた頃(2005年)よりも今の方が、この年代の子たちはさらに苦しい状況に置かれていると思う、とパクさんもおっしゃっています。もちろん中年も大変ですよね、子供の教育費とか……。
岸本:お隣の国だから感覚が近いところもあるけれども、違うところもあって、特に子供にかかるお金ですね。親のお金が子供の将来をすごく左右するから。
斎藤:そう、必死なんですよ。親に資産があると準備されたレールを行けるけど、ない人はレースにすら参加できない。あらかじめ「君の分のチケットはないよ」って言われちゃうしんどさがありますね。
岸本:そういう意味では、行き詰まり感みたいなものは韓国の若者の方がきついかもしれませんね。それと韓国文学を読んでいると、必ず不動産問題が出てきますよね。
斎藤:はい。これも“チョンセ”(『サイドB』p277解説)という韓国の独特の不動産システムが関係していますね。あと親の世代が子供たちにどう不動産を分け与えるかというやりくりには実はもっと入り組んだ事情があって、とても解説で書ききれないんです。でも、韓国人が読んだら「わかるわかる」って。「どういう所が再開発で発展する街になりそうか」を見極め、「どういう物件を押さえておいたらその後お金になるか」を考え、「子供に分け与える時はどうするか」ってすごくリアルな話ですよ。
岸本:それ考えたら、日本人はちょっとボーッとしてるよね(笑)。
斎藤:むっちゃボーッとしてる。「どうすんの?」とか言われますもん。
岸本:もちろん子供にいいものを残してあげたいとか、いい不動産を買いたいとかはあるけれど、韓国ではそれが子供の一生を左右する問題なんですよね。「ディルドがわが家を守ってくれました」(『サイドB』所収)でも会社をクビになったおじさんが、あの時マンションさえ買っておけばって何度も言っています。この作品、可笑しい。
斎藤:この作品は、韓国のここ20年の一つの典型のような話です。名刺にはなんとか部長って書いてあるんだけど、途中から契約職になって、非正規雇用なんですよね。その人が、韓国ではもう車が売れなくなって、火星に売りに行くんだけど(笑)。
岸本:そうそう。これの何が好きかって、私、途中からガラリと変わる話すごく好きなんですけど、この作品も途中まで立ち行かなくなった人の悲哀溢れるリアル話かと思ったら、急に火星に行くんですよね(笑)。
斎藤:どうやって火星に行ったのかというと、ナビに入れてスッて行ったらスッて行けたって(笑)。
岸本:空気がないじゃないかって言ったら、車が売れる売れないの時に空気のことなんか言ってられるか、ってむちゃくちゃなんですよね(笑)。私、A、B通じてこの話が一番好きかも。
斎藤:こういうふうに物語の階段を2、3段超えるのは、小説家の方がとても苦労するところだと思うんですけど、それを見事に跨いでます。グルーヴ感があって、私もこの手があったなって思いました。