ちくま学芸文庫

一刀斎センセイは生きている
森毅著『新版 数学プレイ・マップ』解説

一刀斎こと森毅先生が鬼籍に入って、はや10年。学芸文庫Math&Scienceを立ち上げる際に、真っ先にご相談にのっていただいたのが、森毅先生でした。ああしたらええやないか、こうしたほうがええかな、とサービス精神満点で長時間にわたっておしゃべりしたことを、つい最近のことのように思い出します。今回『新版 数学プレイ・マップ』の解説をご寄稿いただいた亀井さんは、私どもよりもはるかに長いウン10年の間、雑誌、書籍で森先生と伴走してこられました。名物数学書編集者から見た素顔の一刀斎センセイとは? ちなみにカバー写真も亀井さんの撮影です。


一刀斎とは?


 森毅さんには「一刀斎」という渾名があるらしい,と知ったのは,『現代の古典解析』(現代数学社)を手に取ったときだった.
 1970年4月に日本評論社に入社して早々のころ,書評用にと『数学セミナー』編集部に本が送られてきた.カバーのイラストが柳原良平で,22章の各扉にも柳原さんがイラストを描いている.軽妙にして洒脱.ちょっぴり色気もある.もうそれだけで,柳原ファンの野田幸子編集長は羨ましがっていた.
 しかし,私が驚いたのは,カバーの袖に載った著者近影だった.口ひげに顎ひげ,メガネから覗く精悍なまなざし,すこし痩けた頰.カッコイイのだ.
 写真の下に,倉田令二朗さんの「森毅(一刀斎)を語る」と題する文章が添えられている.
 「一刀斎は生きている.疑うものは京都に行け.ルネ・デカルトは,その思索と数学をすべてゴロゴロ寝そべる生活によってのみ支えたが,一刀斎は,娘のPTAへの参加にあたり,その辺に横になろうとして奥さんに叱られたことがある程にデカルト主義者である.
 一刀斎の剣は鋭くもあり,ナマクラでもある.合理性と両義性の双方に耐えるのがその極意であり,(……)その剣は今や閉塞の時代につきあたらんとしつつある近代合理性を切り崩して行く」
 なんとカッコイイことか!(昔の若者ことばの連発で,ちょっと気恥ずかしいけれど)
 もともと『現代数学』の2つの連載「解析I」(のちに『現代の古典解析』となる)と「数学の歴史」や,『数学的思考』(明治図書)などを読んで森ファンだった23歳の若者は,完全に,一刀斎ファンとなってしまった.
 そして同じ1970年10月,倉田さんが『朝日ジャーナル』に書いた「SSS その発生と霧散」で,こんな一文と出会う.
 「だが,一刀斎こと森毅は北海道にあって,一人静かに剣を磨いていた」
 1953年に立ち上げられたSSS(新数学人集団,「エス・エス・エス」と読む)は,代数的整数論国際シンポジウム(東京・日光)が開催された55年ごろをピークに,情況の変動や58年の谷山豊の自殺などの影響も受けて,運動体としての活力が次第に失われつつあった,その時期における森毅さんの描写である.
 「独り,静かに,剣を磨く」.まさに剣豪,剣客そのものの姿だ.しびれました.
 一刀斎というと,私は即座に『一刀斎は背番号6』という映画を思い出す.菅原謙二主演.私は中学生だった.筋はうろ覚えだが,野球のやの字も知らない剣の達人・伊藤一刀斎が,何かいきさつがあってプロ野球選手となり,ホームランを量産する,というような物語だった(正確ではないが,ここは記憶のままで書く).
 原作は五味康祐で,調べてみると1959年に映画化されたという.一刀斎ものの剣豪小説を書いた五味康祐も茫々たる髭づらで,どことなく森さんに似ている.主演の菅原謙二の口ひげ・顎ひげも,一刀斎のイメージをつくり上げた(ただ,菅原謙二はちょっと二枚目だけれど.森サン,ゴメンナサイ).
 『現代の古典解析』のカバーの袖に載った口ひげ・顎ひげの写真は,一刀斎その人を連想させるに十分な雰囲気だった.
 実際のところ,森さんがSSSの仲間などから,なぜ「一刀斎」と呼ばれるようになったのか.ご本人も含めて,何人かの人に由来を訊いたことがあるが,上のような人名や映画・小説が挙がった(もう一人,俳優の伊藤雄之助の名が挙がることがある.風貌は森さんに似ていたが,なぜ剣豪の一刀斎とつながるのか,いま定かではない).
 むしろ,風貌よりも,若き日の森さんの文章の切れ味が,伊藤一刀斎の剣さばきの鋭さを仲間たちに連想させたのではないか.そんな気がする.
 まぁそんなところから,誰かが使い始め,やがてみんなが呼ぶようになった,ということだろう.渾名を付ける名人だった倉田令二朗さんの存在が大きかったかもしれない.


一刀斎ダイヤグラム


 「数学について語ることもまた数学である」とは倉田令二朗さんの言葉である.数学に関する仕事というものを,研究だけに限定せず,もっとひろく考えようという姿勢である.編集者にとってはとても励まされる言葉だ.
 このひそみに倣って,私は一刀斎森毅さんの数学の仕事として,《一刀斎ダイヤグラム(森ダイヤグラム)》を取り上げておきたい.
 下の図がそのダイヤグラムである.小学校でまなぶ内包量(量の理論)の計算を土台に,中学の正比例関数から微分・積分と線型代数という2つの流れに分かれ,それがベクトル解析で合流する,という筋道で数学の解析分野をとらえたものである.

一刀斎ダイヤグラム(森ダイヤグラム) (小沢健一さんの描かれた図を参考に作成)


 私は森さんの『大学教育と数学』(総合図書)という本で初めてこれを知ったのだが,小学校から大学2年くらいまで長々と学んできた数学は,こんなに太い柱でつながっていたのだと初めて理解できて,感動したことを思い出す.新入社員1年目のときだった.
 学校数学を貫いているこのように明確な太い流れがあるならば,小学校から高校までの数学教育は,これを柱にして組み立てればよい.10年ごとに学習指導要領をいじくり回す必要性などどこにあるのかと,それ以来,ずっと疑問に思っている.
 小沢健一さんによれば,この《一刀斎ダイヤグラム》は,かつて高校の数学教育に大きな影響を与えたという(小沢さんの「『水道方式』がめざした算数・数学教育の改革」,
『戦後の教育実践,「今」へ伝えるメッセージ』所収.学文社刊).さて,いまはどうだろうか.
 森さんは1960年代初めころ,山口昌哉さんに誘われて,数学教育の改革運動に深く関わるようになった.民間の教育団体「数学教育協議会(数教協)」に加わり,意欲的な小中高の教師たちとの交流が始まったのである.数教協のリーダー遠山啓さんや銀林浩さんたちが現場教師とともに創り上げた《量の理論》や《水道方式による計算体系》に共感したことも大きかったろう.
 自伝『自由を生きる人生は芸能,そしてゲームだ』(東京新聞出版局)で森さんは,教育について考えるとき,「どうすればわかるようになるか」よりも「わからなかったのはなぜか」のほうが気になったと書いている.この姿勢に《量の理論》という問題関心が重なったのだから,《一刀斎ダイヤグラム》が生まれたのはきわめて自然なことだったと思う.
 なお,60年代の『算数教育の基礎理論』『量数概論』(明治図書;前者は単著,後者は市川徹との共編)は数教協での活動を踏まえて書かれた.70年代の『解析の流れ』『微積分の意味』(日本評論社)は《一刀斎ダイヤグラム》の流れに沿って数学を概観する好著である.

 

教室に,すべての教科書を
 

 森さんは1980年代の初めころ,高校の数学教科書づくりに取り組んだ.“これまでにない”教科書をつくりたいと,三省堂の編集者大久保紀晴さんが立ち上げたプロジェクトである.学習指導要領と検定という2つの縛りのなかで,はたしてどれだけ“自由な” 教科書がつくれるか,という壮大な試みだった.そして,最初の『高等学校の数学I』では,伝統・定番の「第1章式と計算」は“つまらない”からと最後に回し,「2次関数」から始めるなど,“読んでおもしろい”教科書が誕生したのだった.
 この画期的な教科書をめぐる物語は,前掲の自伝『自由を生きる』や,野﨑昭弘さんがちくま学芸文庫版『高等学校の確率・統計』の解説に書かれているので,ごらんいただきたい.
 三省堂の高校教科書・指導書は,三宅なほみさんの努力により,電子版として,ウェブサイト「東京大学CoREF」で読むことができる.「三省堂高等学校数学教科書電子版」で検索してください(閲覧には申請が必要).
 ついでながら,教科書づくりのころに森さんが語ったユニークな提言をご紹介したい.すなわち「小学校から高校まで,すべての教室に,全種類すべての教科書を置いておいたらどうか.採択でどれか一社に決めて,それで授業を進めたいなら,それはまぁ仕方がないとして,教室にほかの会社のいろいろな教科書があったら,子どもたちは自由にそれを読んで,『ぼくはこっちの教科書のほうがわかりやすい』とか『こっちの教科書の書き方が好きだ』『わたしはこっちのほうが面白いな』とか,教科書どうしを比べてみることができる.批評眼も養われるしね.一種類の教科書しか知らないというのは不幸なことだと思う」
 じつに森さんらしい発想だ.これが実現すれば,教科書の売れ行きに下支えができて,教科書会社も助かるはずと,森さんは付け加えていた.そして,歴史教科書のように,大人たちが立場の違いから露骨に批判し合わなくても,子どもたち自身がおのずから自分の考えを培うようになっていくに違いない.
 そのための資金は……さあ,どれほどかかるか.しかし,子どもたちの教育を真剣に考えるならば,資金がないはずはない.


一杯8000 円の水


 私は森さんから《カメテツ交通公社》という渾名を付けていただいた.
 1970年代終わりから80年代にかけてのころ,春・秋の数学会の折には,毎晩のように,連れだってどこかの居酒屋に繰り出す,というのが慣習だった.音頭取りは倉田令二朗さん.勉強が終わると「おい,どこかに行こう」と声が上がる.齋藤正彦,木下素夫,杉浦光夫,福富節男,廣瀬健,難波完爾といった人たちが主な顔ぶれで,ときに若手も加わる.私もしばしば端っこにくっついて行った.
 うまい酒を飲み,美味しいものを食べ,世の中のありとあらゆる事柄をテーマに,まるで若者のように議論が展開するのである.もちろん数学も話題に上る.聴いているだけでじつに刺激的で,さまざまな企画のヒントを引き出すことができた.
 この集まりに,森さんもときどき顔を出していた.自他共に“下戸”と認める森さんがなぜ居酒屋に? 答えは簡単で,美味しい肴と水があればよいのである.
 いつのころからか,私は皆さんのホテルを予約する役を買って出ることを思いついた.同じホテルに泊まれば,二次会,三次会と,深夜まで皆さんの話が聴けるのだ.
 二度目のときだったと思うが,森さんに電話をしたら,「ああ,カメテツ交通公社やね」と笑っておられた.
 下戸の森さんで面白かったのは,いや気の毒だったのは,「一杯8000円の水」を飲ませてしまったことである.
 場所は仙台.ホテル近くに美女揃いのバーがあると,福富さんが友人から教わったというので,二次会で繰り出した.森さんも断り切れずに(?)同行され,水を飲みながら話が弾んだのだが,いざ割り勘となって,高い水代を払っていただくこととなった(この話は,ご本人もエッセイに書いておられる).
 

『数学プレイ・マップ』の命名


 自伝『自由を生きる』を読むと,森さんは「旅行は好きではない」のだそうだ.
しかし,そうはいいながらも,山口大学での学会のとき,「津和野に行ってみませんか」と誘ったら,「安野さんの故郷やね.行こ行こ!」と,いとも気軽に乗ってこられたのだ.安野光雅さんとの『対談数学大明神』(日本評論社)が完成したばかりだったので,安野ファンの森さんとしては,どんな街なのか,一度,見てみたかったのかもしれない.街を歩きまわりながら,しきりに「ツワブキが食べたい」といわれる.下戸の一刀斎センセイの酒肴好みである.しかし季節はずれのため,願いは叶わなかった.
 ところで,『数学プレイ・マップ』は森さんの命名である.雑誌を担当しながら一方で単行本もつくりたいと思い立ち,森さんの数学読みもの集を構想した.タイトルを相談したら,すぐさま「プレイ・マップはどうや?」と返ってきた.
 好きではないといいつつ,ひとたび旅行に出てしまえば,むしろそれを楽しもうとする一刀斎センセイに,こんどはツアー・ガイドとなって,あちこちを案内してもらう,という趣向である.
 このたびのちくま学芸文庫版の機会に,編集の渡辺英明さんと相談して,これまでのとは味わいの違う風景を加えてもらった.旧版のあとがきにあるように,「そこで,勝手に遊んで,そして自分の地図を,これまた勝手に作」っていただきたい.
 なお,「微積分の七不思議」は,森さん30歳のときの文章である.SSSの機関誌『数学の歩み』で見つけた.
 

一刀斎センセイは生きている


 森さんが大やけどをされる8日前,東京・市谷浄瑠璃坂のお宅で,二度目の「プレ勉強会」があった.2009年2月19日のことである.その年の5月からは,いよいよ京都を引き払って東京住まいをされるというので,月に一度,一刀斎センセイを囲む勉強会をすることになり,年明けから二度ほど,プレ勉強会を開いたのだった.
 勉強会とはいうものの,要するに,一刀斎センセイの“おしゃべり”にじっくりと耳を傾ける集いだ.編集者の則松直樹・高山みのり,高校教師の曽根由理恵・弘幸夫妻,小沢健一,何森仁の皆さんと私が当面のメンバーだったが,いざ勉強会となれば,もっと増えていたにちがいない.
 もしほんとうに勉強会が実現できていたなら2010年以降でも,話題には事欠かなかったろう.東日本大震災,福島原発事故,安保法制の強行採決,アベ政治,そして新型コロナウイルス…….数学者の福富節男さんや清水達雄さん,赤攝也さんの逝去もあった.
 一刀斎センセイのおしゃべりを聴くと,なぜだか,帰途に就くとき,足取りが元気になっているのである.その経験が私たちに勉強会を思いつかせたといってよい.
 没後ちょうど10年.森さんの本がいくつも新たに出版され,新しい読者を得た.私のような旧い読者にも新鮮な風が吹いてくる.書棚に並んだ蔵書とともに,任意のページをひもといて読んでいくと,いつのまにか,一刀斎センセイのおしゃべりを聴いているような気になり,顔が浮かび,声が聞こえてくるのである.
 一刀斎センセイは,いまも,生きている.

 2020年7月24日10年目の命日に

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