PR誌「ちくま」特別寄稿エッセイ

水が流れて
皮と臓器と/水が流れて・3

PR誌「ちくま」7月号より草野なつかさんのエッセイを掲載します。

「私は家。家族と外界を隔てる境界。私のなかで起こっていることを外の人は誰も知らない。」(遠藤幹大・三上亮『Under Her Skin』より)

 暗渠が好きだ。そこが暗渠であるという特徴はいくつかあり、散歩中などそれに出遭うと「おっ」と気分が高揚する。足下には水が流れている。かつてこの場所には水が流れていた。新しい道路が通り家を建てたとしても、ちょっとしたサインでそれはすぐに判る。地形は脈々とつづく記憶のしるしでそう簡単に変えることは出来ない。
 二十四歳で一人暮らしを始めるまでずっと、持ち家一軒家である実家に住んでいた。私が六歳の時に建て替えをし、建物は新しくなった。きれい好きの母は常に物が少なく美しい室内を保ち、その整然とした空間は多少の息苦しさを私にもたらした。実家を離れてから何度か転居を経験したが、たいてい私は好んで築四十年以上の少し古い家を選んだ。何かの拍子で開いてしまったであろう小さな穴や電気スイッチに貼られた年代不明のシール。柱にはいつか住んでいた子どもの成長記録が刻まれていた。そんな、家が生きてきた証があるだけで、おおきな安堵感に包まれる。私は「この家」の歴史のなかではひとつの点でしかない。
 最近よく肝臓の事を考える。中医学の肝は疏泄と蔵血を司る。疏泄は気を巡らせること、蔵血は血液の貯蔵と全身に送る血量を調節する働きのことで、それが正常だと情緒の安定が維持でき、正常でないと精神不安や眩暈、目の疲れなどを引き起こす。私の肝臓には想像上の人(臓)格が出来つつあり、ひどい不調が続いたときは肝臓に話しかけたりする。肝臓への愛着が湧いたいま、以前よりも身体を労わるようになった。
 慢性的な肩こりを始めとした複数の不調を抱えるこの数年、あらゆる整体・マッサージなどに掛かってきた。凝り固まった身体に対し力で対処しようとする施術師は苦手でそういった人の手に掛かるとこちらも力で反撥し、施術後は却って疲れてしまう。昨年末から通い始めた整体は、整体師の身体そのものがホースやポンプのような媒介物となって私の身体を循環させてくれる。スピリチュアルめいた表現だが、イタコさんってこういう感じなのかもしれない、と思う。
 遠藤幹大・三上亮の映像作品『Under Her Skin』(2018)は家の語りから始まる。北千住にかつてあった軍靴工場と現在の整備された公園・高層マンション群の風景。そして語り手である古い日本家屋についての、家と川と皮にまつわる物語。かつて水に囲まれていたその家は自身を水風船、と形容していた。それは恐らく、ふたつの川に囲まれた千住の地の事も指している。
 京都の岡崎にある友人宅を訪ねた帰り道、目の前を流れる水路は自然の川ではなく琵琶湖疎水なのだと教えてもらった。疎水沿いを歩き続けるとやがて鴨川に辿り着く。緊急事態宣言下の夜の京都はとても静かでひんやりとしていた。ふと、体内に思いを巡らせる。身体は私のものであり、私だけのものではない。

PR誌「ちくま」7月号