紙を束ねた「本」のかたちに、いまだに執着を持っているひとならば、京都に「ガケ書房」という、一風変わった名前の本屋があったことを知っているかもしれない。
ガケの上にあるわけではない(外観はガケっぽかったが)。経営がガケっぷちだから、というわけでもない(実際は危なかったみたいだが)。店主であり、本書の著者である山下賢二さんの頭のなかに、ある日ふいに入りこんだ本の妖精、スピリットが、山下さんにささやいたのだ。「ガケ書房」と。
子どものころの記憶から語られる。京都駅北西あたりの町の小さな本屋「こま書房」。小学校で六年のあいだひとことも喋らなかったこと。
山下さんの記憶は、強く、やわらかだ。生き生きしている。幼子だからか。そうじゃない。十代、青年になってからも、山下さんの記憶はあいかわらず、強く、やわらかで、生き生きとしている。うろたえ、怯え、怒りにふるえ、濡れたアスファルトを睨みつけながら、ひと晩じゅう街路を歩いている。
青年期を過ぎ、京都にもどる。書店員を経験し、みずから、新刊書店をひらきたい、と思うようになる。左京区で物件をさがし、立地、家賃から二件にしぼる。迷いつつ、そのあいだを往き来するうち、ある日、交差点で信号待ちをしていたら、白川通に面した角地の物件が目にはいった。
「ここしかないと思った」
と、山下さんは書いている。ぼくはまるで自動車の助手席に乗っている。
山下くん、マジ。なんでここなん。まだ中もなんも見てへんのに。
山下さんは書いている。
「そこで店をやっているイメージがすぐに湧いてきた」
不動産屋にいくと、もうひとり、あの物件を借りるかどうか悩んでいるひとがいる、といわれる。
「僕は手を挙げた。こうして、僕の店の場所は決まった」
回想録にみえてそうじゃない。山下さんは一瞬も回想などしていない。物件の前に立ち逡巡し、かと思えば駆けだし、酔っぱらい、ひとり店のレジでまるで見通しの晴れない明日の雲を見つめている。山下さんの書く過去形は現在進行形だ。いつだって、たったいまを語り、たったいま、書いている。だから記憶が、いつも、強く、やわらかで、生き生きしている。
過去だからといって、後付けで取りつくろったり、いいまわしをかえたり、スルーしたりしない。山下さんには、それができない。本人は選んでいるつもりかもしれないが、すべてのページで底抜けに、人間がまるみえだ。
奈良と三重と和歌山の県境近くの集落、九重に、bookcafe kujuをオープンした話がでてくる。ぼくも開店の初日にいった。九重は空が広く、建物のまわりに、ふしぎな黄金色の光が汪溢していた。店にはいると、その光はおさまるどころか、屋根を開け放したかのようにいっそうあわあわと輝いた。
山下さんが本を運んでいる。棚の上、箱の横、足もとにも本が積まれている。僕は息をのみ、立ちすくんでしまった。店内のすべての本は、天からばらまかれ、ばさばさ、とその場に積みあがっていったかのように、たくらみも、意図も、好みもこえ、野生動物の立ち姿のように完璧にそこにあった。ふしぎな光は、その本たちが発しているのだった。
そうしたいんだろう、という店がたまにある。けれども、その気配がみえてしまった時点でなにかを失う。店も、本も、ことばも。
山下さんだから、そうなってしまう。本人の意志をこえて、そうなってしまえる。本書をめくっていると、たまにページからそんな光がさす瞬間があり、ぼくはやはり、そんな「たったいま」のなかに、知らず知らず立ちどまってしまう。